午前1時55分頃、会社に着いた。会社も停電で真っ暗だった。
非常時電源も作動していないようだった。
2階フロアに上がると、各人の机からモノが散乱していた。
出社していたのは、また数名。
放送の機能もやられているようで、テレビは何も出来ない状況だった。
報道部には、Nデスクとカメラマンが2人ほどいる状態。
ラジオは生きているようで、ブースからKアナが注意喚起のコメントを伝えていた。
私の部では、先輩のS氏が会社に泊まっていたようで、陣頭指揮を始めた。
しかし、普段は冷静なS氏も慌てているようで、カメラの操作に戸惑っているようだった。
「K新聞本社が崩落?」という情報が入り、
S氏からの指示で、民生用カメラを持ち、外に撮影に出ることに。
私の後に出社した新人のS君を連れ、社を徒歩で出た。
ますは、近くのK小学校へ向かう。
近隣の住民の方も、暗闇の中、小学校に向かっていた。
蔵作りの飲食店は完全に崩落。
小学校のグラウンドには、すでに200人位の方が集まり、座り込んでいる状況だった。
その中を、地域消防団のYさんが、拡声器で、落ち着くように語りかけていた。
次に、3号線を南下、向山地区に。
あらゆる建物からタイルの落下、ブロック塀の崩壊が見られ、江南中学校へ。
ここは、校区の指定避難所であるようで、地域の方が次々に集まっていた。
車いすのお年寄りも、家族に車いすを押され、集まっていた。
グラウンドには、非常用なのか、オレンジ色の明かりが灯されていた。
グラウンドと体育館には、すでに、500人以上の人が避難していた。
皆、何も語ることなく、不安そうに、ただ座っているしかないような状況だった。
次に、K新聞社に行く。
敷地には、新聞社の人たちが避難していたが、建物の崩落は無いようだった。
その後、南署前のホームセンター駐車場には、車で避難してきた多くの車で一杯であり、
平成駅近くで発生した火災現場を撮影。
そして衝撃的だったのが、琴平通りの葬儀社の屋上の非常に大きな看板が、隣の駐車場にずり落ちていたことだ。
移動中も、何度となく、緊急地震速報のアラームが携帯からなり続ける。
ワンセグで確認すると、阿蘇地域での大きな地震が発生していることも知る。
本社の状況もわからないので、4時を過ぎた時点で本社に戻ることに。
本社内は、未だ停電のまま。
我々のように撮影に回った初動班もすべて戻ってきていた。
素材を報道に渡し、しばらく待機するしかなかった。
そのまま、日が明るくなる時まで。そして、電気が復活するまで、待つしかなかった。
非常時電源も作動していないようだった。
2階フロアに上がると、各人の机からモノが散乱していた。
出社していたのは、また数名。
放送の機能もやられているようで、テレビは何も出来ない状況だった。
報道部には、Nデスクとカメラマンが2人ほどいる状態。
ラジオは生きているようで、ブースからKアナが注意喚起のコメントを伝えていた。
私の部では、先輩のS氏が会社に泊まっていたようで、陣頭指揮を始めた。
しかし、普段は冷静なS氏も慌てているようで、カメラの操作に戸惑っているようだった。
「K新聞本社が崩落?」という情報が入り、
S氏からの指示で、民生用カメラを持ち、外に撮影に出ることに。
私の後に出社した新人のS君を連れ、社を徒歩で出た。
ますは、近くのK小学校へ向かう。
近隣の住民の方も、暗闇の中、小学校に向かっていた。
蔵作りの飲食店は完全に崩落。
小学校のグラウンドには、すでに200人位の方が集まり、座り込んでいる状況だった。
その中を、地域消防団のYさんが、拡声器で、落ち着くように語りかけていた。
次に、3号線を南下、向山地区に。
あらゆる建物からタイルの落下、ブロック塀の崩壊が見られ、江南中学校へ。
ここは、校区の指定避難所であるようで、地域の方が次々に集まっていた。
車いすのお年寄りも、家族に車いすを押され、集まっていた。
グラウンドには、非常用なのか、オレンジ色の明かりが灯されていた。
グラウンドと体育館には、すでに、500人以上の人が避難していた。
皆、何も語ることなく、不安そうに、ただ座っているしかないような状況だった。
次に、K新聞社に行く。
敷地には、新聞社の人たちが避難していたが、建物の崩落は無いようだった。
その後、南署前のホームセンター駐車場には、車で避難してきた多くの車で一杯であり、
平成駅近くで発生した火災現場を撮影。
そして衝撃的だったのが、琴平通りの葬儀社の屋上の非常に大きな看板が、隣の駐車場にずり落ちていたことだ。
移動中も、何度となく、緊急地震速報のアラームが携帯からなり続ける。
ワンセグで確認すると、阿蘇地域での大きな地震が発生していることも知る。
本社の状況もわからないので、4時を過ぎた時点で本社に戻ることに。
本社内は、未だ停電のまま。
我々のように撮影に回った初動班もすべて戻ってきていた。
素材を報道に渡し、しばらく待機するしかなかった。
そのまま、日が明るくなる時まで。そして、電気が復活するまで、待つしかなかった。