3日前、自分がほんっとにお馬鹿さんなんだな~!!と実感する「バカ田大学現象」が起きまして。

自分のバカさが爽快なまでにバカだったので、それまでの深刻っぷりとか空回りとかがもう相乗効果的に可笑しくて間抜けで、非常に多幸的な気分になったのでした。
その多幸的な気分は、あまりに爽快だったために、「さては『観察者=真我=神様=一なるもの』ったら、この爽快感を味わいたくて「私」にこんなバカやらせたでしょう?もうっ、もうっ!!」みたいな、タチの良い「ドッキリ」に引っかかった後や所謂「アハ効果」みたいな感じになって、脳内に妙に良い気持ちになるものが分泌されてしまったようです。

バカな自分が可愛いわけよ。バカがバカしていて愛しいわけよ。
バカだった~!!!!!って気が付いた瞬間の爽快感は、バカだった体験を経ないと経験できないわけよ。
そう思うと、バカだった自分もマジに愛しいというか、他人みたいにかわゆい。

「神との対話1」でこの本に出てくる「神様」は愛とはあらゆる感情の総和であるので、魂(神様自身であり実は私達)が完璧な愛を経験するには「人間のありとあらゆる感情」を経験しなければならない、「人間の魂の目的はすべてを経験すること、それによってすべてになりえること」だ、と。

私を通じて神様が色々体験して神様自身を知りたいのかぁ~と思ったら、身の回りのあるものとか、目に見えるものとか、自分の体とか、自分が右足、左足、って出して歩いているのすら「スゲエ」って新鮮になっちゃって。

まるで大島弓子の「四月怪談」みたいだ、と思った。

「四月怪談」は大島弓子の昭和58年発表の作品で、登校途中に事故で死んじゃった女の子が親切な幽霊に出会って色々紆余曲折を経て、どうにか生き返る話。
アクシデントでその親切な幽霊と女の子は一緒の体で生きることになったんだけど、生き返った二人はコップを持ち上げて水を飲むのも、歩くのも、自分に影が出来るのも、掃除を手伝っていて花瓶を割っちゃうのも、すっごく楽しくて新鮮に感じるのよね。
まさにそんな感じ。

3日経ったらちょっと治まったけどね。(笑)
でもね、本当に失敗ですら、神様が体験したくてやってるんだと思ったら、なにか失敗って失敗じゃないような気がして笑っちゃえるの。
(深刻な失敗じゃないからだろうけどね。)

あ~、自分って「四月怪談」の女の子みたいになってらぁ、と思って今日「四月怪談」を見直したら、生き返った後だけじゃなく色々いいことを幽霊の弦之丞君が言っていた。

「あなたの生きかえらない心に泣いているんです とりえってなんですか?
とりえって すなわちあなた自身ではありませんか
とべないことも 不可能のことも 冴えないことも みんなとりえなんじゃありませんか」

とかさぁ。

こんな気持ちの良い体験をしたいから、バカやらすんだろうな、神様。




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