「なう」はその1日のある瞬間の凝縮である。
「なう」を解凍することで今日一日を追い、記録することが出来る。

〇今日私がいつもよりちょっと冴えてるのは久しぶりに朝ランしたからだと思う。結局朝ランが一番正しい「行」と決定だ。

今日は5時に目覚めて6時までうとうとした。
6時に「なにやってんだ、俺!」と自分を責めたが、よ~く考えたら普通の生活からすると6時は立派な早起きだったので、気を取り直して朝ランに行った。
瞑想か?写経か?ランか?よくよく考えてランを選択。
5月になってから体調不良と生理で朝ラン、全然できていなかったので。
昨日からちょっと腰が痛くなる予兆も出て、ラン再開のギリギリだ、と悟る。

走り始めてすぐに左足の内側全部がギシギシしたり、左右のお尻のほっぺがつりそうになったり、右の土踏まずが攣りそうになったり、体が錆びつきかけているのが解る。
辛くなったらいつでも歩こう、と思っていたけれど、あっさり1時間を走り切る。

で、午後になってから、上記の「なう」が出た。
今日、色々な意味で久しぶりにちょっとだけ冴えてる。
、、、、朝ランの効果だな、と。
瞑想も写経も悪くないけど、たぶんすべてを包括していて、今の私に最も効果のある「行」は朝ランだ、と決定。
一番サボり易いんだけど。


〇古今の名作を見ても、具象彫刻も絵画も、そんなにクソリアリズムしてないんだった。私は近視眼的な人なので手のしわ全部作らなきゃ、と思いがちだけど美しい手、の作品というのは仏像の手にしてもモナリザの手にしてもそんなにクソリアルじゃなかったんだよね。具象に対する怖気が一つ抜けたな。

〇きっと昔の人は手が手に作れるのなんか当たり前で、そこからどのような「者」の手に作っていくか、がキモだったんだろう。

今日の作業からの実感。
モチーフを見ながらそれに近づけていく「模刻」は油絵受験生だった私は今までしたことがなかったけれど、初めてやってみて目の前にあるものを丹念に追いかけていく作業は、かなり楽しいのが昨日解った。

で、今日思ったのは上記二つ。
私は形を近視眼的に追いかけるタチで、皺一つとか皮膚のタルミとか、そういうものに惑わされやすく、目からの情報を整理できず振り回される。
しかし、「手を作る」とは参考にしている私の手を再現することではなくて、その作品にふさわしい「手」を作ることなんだよね。
そこにはクソリアリズム(ハイパー写実)が求められているんじゃなくて、その作品の中の「手」が求められているのを忘れずに、だ。

〇つけたし・今日の着物。

白地に黒・海老茶・黄土色で斬新な抽象の模様が織り出されているサマーウール・黒系の半幅帯・黒の半襟をかけた絹の長襦袢。

絹の長襦袢は、ポリエステルの物に比べて袖口などが汚れない。
不思議だと思っていたんだけど、たぶん静電気のせいだと思う。
絹だって単衣なら洗うのは簡単だから、「洗いたいから」ということで絹を恐れて余計に汚れやすいポリエステルを選択するのは、実は大間違いなのではないか。