3日やっただけなんだけど、なかなか写経は楽しい。

東急ハンズで写経キットと筆と墨汁を買って、あとは箱書きをしなきゃならない時のために持っていた道具で何とかまかなえた。
場所も山梨の家には「仏間」というおあつらえ向きのスペースがあるので、仏壇に向かって古い四角いお膳で正座して書いている。
昨日も今日も朝に盛大に雨降りで走りに行かないので、着物でちんまり座ってやった。
(こうなると文机じゃないのが惜しいね・笑)

色々一昨日にやってみて、敷き写しじゃなくて横に置いたお手本を見ながら「臨書」で書くことにした。

私は陶芸家だけど筆で絵付けをしたりしないので、筆で何か書くなんて(箱書きと署名以外は)40年ぶりに近い。

お手本通りに書くのを強制される書道の時間が大嫌いだったので、うちの母や叔母は書道が趣味なのが正直気がしれなかった。
よって・昨日も一昨日も今日も悪戦苦闘。
悪戦苦闘ながらも、筆をどのように動かしどのようにするとこうなり失敗したり多少良かったりするというのが明白、原因(行為と用具のコンディション)と結果の因果関係が解り易いので「おもしろい」。

「字」を書いていると思わないで、字を構成している「点」や「線」だけに集中した方が結果が良い。
「字」全体を見るなら最初に俯瞰で見て前の字との大きさのバランスを見ておくくらいにしないと、その「字」を頭の中でイメージしてしまって結局手本を無視して勝手に書いてしまい、それでは「写」にならない。

今日は1行27字×4行で108の文字の中に「無」が16個も入っていて「無」祭りだった。(笑)
「無」って調べるまで筆順も間違って覚えていたし、格好の取りにくい字だ。
4本の縦棒があり、4つの点がある。
縦棒のすべてが線のはじまり方(穂先の感じ)と動きが違い、4つの点もダ~っと点が並んでるのでなくて、向きや方向性や形のすべてが違う。
よく考えるとあたりまえなんだけど、活字を見ていると忘れちゃうじゃないですか、そういうこと。
「無」の点々をじっと見ていたら私達たこのまくら家の4人きょうだいに見えてきた。
「点々」だけど、全員がひとりひとり激しく違う、「個人」だ。
私は真ん中の子で扱われ方が悪かったと思って僻んで育ったわけですが(笑)
そういう私だって「無」の点の真ん中2つは今迄流して書いてきたわよね。
これからは「無」の点々はひとりひとり違う幼子の様に扱うよ。
(うまくかけないんだけどね、特に最後の点が。)

そんなことを考えながら、点ひとつ、線一本をより丁寧に見て感じとって再現できますように、と約1時間。
正直作品を作るとき、私の作業はほとんどこういった「行」みたいなもんなわけですよ。
1ミリ以下の細い粘土の「より」を淡々と作るとか、菊の花弁を1枚1枚作るとか。
だから今の私には瞑想より写経、と言われた時には正直ムッとしたわけですよ。
せっかく瞑想が気に入ってやっているのに脇にどけてこの上まだ「作業」しろってか!?みたいにね。

でも手応えがあるしおもしろいし、結局制作にも生きそうだから「ムッとした」のは水に流そうかな、と思います。
勧めてくれなければこういう体験もなかったので勧めてくれた方には感謝していますが、「感謝は無駄だ」と言い切った人だから感謝しにくいわねぇ。( ̄ー ̄)