子供の頃から自分の家族とも浮いた「変わり者」で通ってきて。
心からこれがしたい、これが良い、と言っても「変なの」「変わってる」と笑われたり怒られたりしてきた。
学校に行っても、美大に行ってすら、「まわりと浮いている感」は止まず。
(美大で浮いたときは本当にびっくりした。4浪したからだと思ったけど、違ったみたいだ。)
アーティスト、とやらに数えられてもほかの作家の群れと混ざると非常な浮き感があってとても疲れ。
そもそも私がなんで美大を目指したかというと、絵を描くことを手放したら狂ってしまうか死んでしまうので、いっそ職業にしようと思ったことに加えて、「ゲージツカ」になれば「変わっていて」も許してもらえるんじゃないか?という、そんな考えがあった。
私は今、朝に早起きして座ってCDに合わせて「う~」とか「お~」とか唸ってたり
やっぱりCDに合わせて「お~むぅ~」とか言いながら眉間に力を入れたりしている。
せっかく評価してもらっている陶芸家としての仕事もほっぽらかし。
時間とお金があったら行きたいのはヴィバッサナー瞑想の合宿か断食道場であって、
3週間フィリピンの英語学校でビジネス英語漬けの講座とか、NYCのギャラリーめぐりなんかじゃない。
「変人」街道ここに極まれり、だ。
どうしてこうなった、ってかんじだけど。
最初からこう仕組まれていたって気もする。
いつも自分の存在に違和感がなければ、小さいころから絵を描くことと読書にのめりこまなかっただろうし(絵を描いているときと物語に没入しているときだけ、私は私の頭の中の声から逃れることが出来た。)
自分を見つめるツールとして制作があるために、売れなくても何でもそれにしがみついて続けてこられたわけで。
最近 どうしてこうなった感 が強く感じられてから思うのは、
なんで私がすべての男関係で失敗して、結果扶養家族も持たない独り者の50がらみで、
大学で教えるとか、毎月個展があるとか、そういう華々しい場所に縁がない(にもかからわらずちゃんと作家としてカウントされてるのが不思議だけど)のか、ということで。
すべては今、私が自由に自分を探究できるため、であるよ。
家族や子供や責任のある仕事なんかあってみろ!行きたいところに自由に行けないじゃないか。
本当は行けるんだろうけど、私の性格として多分そういうものがいたら正直に行動はできないだろう。
私が孤独でしがらみがないのは、恩寵だ。
たぶん何度も何度も輪廻を繰り返してきた「全俺」や連綿と続いてきた祖先からの命の悲願の形が、今の私の状況だ。
自分はなんの責任もない立場だから、こんなにフワフワしちゃうのかな、と思ったりしたこともあったんだけど、
この状況は「全俺」が「思いっきりフワフワして自分を追求しちゃってよ、俺達しがらみがあってできなかったから」って、引導を渡されてるんじゃないか。
応えようじゃないか、思いっきり変な人街道を進もうじゃないか。
「全俺」何千年の悲願だもん、ね。
【追記・重要】
だからさ、これを読んでいる色々な立場の方。
奥さんだったり、お母さんだったり、責任ある仕事の人だったり、体の不調で苦しんでる人も。
全員、みんな、それぞれの「全俺」の悲願の形が、今のあなた方なわけですよ。
それ考えると、自分の「今」ってなにも間違ってなくて、
自分の後ろに千人くらいサポーターがいる感じがして、
元気出るよね。(*^_^*)
心からこれがしたい、これが良い、と言っても「変なの」「変わってる」と笑われたり怒られたりしてきた。
学校に行っても、美大に行ってすら、「まわりと浮いている感」は止まず。
(美大で浮いたときは本当にびっくりした。4浪したからだと思ったけど、違ったみたいだ。)
アーティスト、とやらに数えられてもほかの作家の群れと混ざると非常な浮き感があってとても疲れ。
そもそも私がなんで美大を目指したかというと、絵を描くことを手放したら狂ってしまうか死んでしまうので、いっそ職業にしようと思ったことに加えて、「ゲージツカ」になれば「変わっていて」も許してもらえるんじゃないか?という、そんな考えがあった。
私は今、朝に早起きして座ってCDに合わせて「う~」とか「お~」とか唸ってたり
やっぱりCDに合わせて「お~むぅ~」とか言いながら眉間に力を入れたりしている。
せっかく評価してもらっている陶芸家としての仕事もほっぽらかし。
時間とお金があったら行きたいのはヴィバッサナー瞑想の合宿か断食道場であって、
3週間フィリピンの英語学校でビジネス英語漬けの講座とか、NYCのギャラリーめぐりなんかじゃない。
「変人」街道ここに極まれり、だ。
どうしてこうなった、ってかんじだけど。
最初からこう仕組まれていたって気もする。
いつも自分の存在に違和感がなければ、小さいころから絵を描くことと読書にのめりこまなかっただろうし(絵を描いているときと物語に没入しているときだけ、私は私の頭の中の声から逃れることが出来た。)
自分を見つめるツールとして制作があるために、売れなくても何でもそれにしがみついて続けてこられたわけで。
最近 どうしてこうなった感 が強く感じられてから思うのは、
なんで私がすべての男関係で失敗して、結果扶養家族も持たない独り者の50がらみで、
大学で教えるとか、毎月個展があるとか、そういう華々しい場所に縁がない(にもかからわらずちゃんと作家としてカウントされてるのが不思議だけど)のか、ということで。
すべては今、私が自由に自分を探究できるため、であるよ。
家族や子供や責任のある仕事なんかあってみろ!行きたいところに自由に行けないじゃないか。
本当は行けるんだろうけど、私の性格として多分そういうものがいたら正直に行動はできないだろう。
私が孤独でしがらみがないのは、恩寵だ。
たぶん何度も何度も輪廻を繰り返してきた「全俺」や連綿と続いてきた祖先からの命の悲願の形が、今の私の状況だ。
自分はなんの責任もない立場だから、こんなにフワフワしちゃうのかな、と思ったりしたこともあったんだけど、
この状況は「全俺」が「思いっきりフワフワして自分を追求しちゃってよ、俺達しがらみがあってできなかったから」って、引導を渡されてるんじゃないか。
応えようじゃないか、思いっきり変な人街道を進もうじゃないか。
「全俺」何千年の悲願だもん、ね。
【追記・重要】
だからさ、これを読んでいる色々な立場の方。
奥さんだったり、お母さんだったり、責任ある仕事の人だったり、体の不調で苦しんでる人も。
全員、みんな、それぞれの「全俺」の悲願の形が、今のあなた方なわけですよ。
それ考えると、自分の「今」ってなにも間違ってなくて、
自分の後ろに千人くらいサポーターがいる感じがして、
元気出るよね。(*^_^*)