自分が昔見た夢の記事をほかのSNSで探していたら、こんなことを書いている自分に再会した。
今の私とはもはや別人だけど、この人の真面目に苦しんでる感じは嫌いじゃない。


「難儀な自分」2007年10月8日

自分が自分なのが辛いって思うのは普通の感覚なんだろうか。
私はよく思う。
自分を放り出したい。
頭を整理して発想の転換をしても嫌な気分にいったんなると全然回復できなくなったり、人が流せることを流せなかったり、難儀で面倒だ。
自分だけ難儀ならまだいいけど難儀な人は傍迷惑だから、そういう風に自分を自分で御せないとき、限りなく辛い。

でも考えてもしょうがない事を考えてもしょうがない。
自分に生まれてしまったのは取り替えがきかない。
自分には最後まで付き合ってやるしかない。

大好きな画家さんにオディロン・ルドンという方がいる。
この方、幻聴や幻視に苦しんだらしくて人物にわざと耳を描かなかったりする。
この人も難儀な人生を送ったわけで・難儀でもその難儀さをああいう純粋な瞑想的な世界に昇華させられたんだから、難儀な人生でもそれでよかったんだろう。
本人は苦しかったんだろうけど。

だから自分も自分の難儀さを責めないで、それをイイモノに昇華させられるようになるまでになれば、いいんだよね。
難儀な性格なのはどうしょうもない欠点と捉えるんでなく、「だから見えること・感じることがある」として、この難儀さも自分の制作に貢献していると信じよう。
と・思うようにした秋の夜。