きみどりん師匠の最近の日記を読んでいたら、自分もテイストの似た体験をしていたのを思い出した。
1月21日のことで、日記の下書きに書いたんだけど、その頃私は体調も不安定で人生であまり何度もない晴れがましいこともあったばかりだったから、自分がなんか「舞い上がってるだけ」なんじゃないかな、と信用できなくてそのままにしていた。

今日読み返したらそんなにアタマオカシイ人みたいじゃなかったので、公開してみる事にしました。

************1月21日の記事***************

これは軽い覚書で、自分がこういう風だったという記録。
「なう」だと流れちゃうから。


どうもふとした時に妙に感謝や感動の気持ちが出てきやすくなってしまった。

今日も昼ランしがてらスーパーに買い物に行ったら
沢山の商品が豊かに並んでいるこの場所、(何にもないガラガラのスーパーの棚を私たちはつい1年10ヵ月前に見たばかりだよね)
商品の代価として同じ価値の物の物々交換でなくて綺麗な版画の紙や綺麗に刻印された金属片を使ってやり取りするシステム、
飢え死にしそうになっていない上に欲しいものが目の前に並んでいる、この人類史上初ともいえる豊かさ、

について いちいち妙に反応して感謝して感動して困っちゃった。

特に食品であふれた棚を見ていたら、私達が現在ここにいるまでに命をつないでくれたすべてのご先祖様(どこから繋がっているのやら、アメーバとかそんなところから?)とか
彼らが何世代も食べたいものも食べられず飢えに苦しんだり死んだ歴史の積み重ねとか
そんなことが怒涛のように押し寄せてきてしまって、
あやうく「北海道カマンベールチーズ」の前で合掌しそうになって、
ちょっとヤバかった。

3次元に今存在していられるので、私は足を使って立って、
私の周りをユニクロのぱんつとか空気とかが包んでいて、
そういうもの達の存在もそういうものを身に着けている感覚を感じている自分も不思議だし、「稀有」とか「人類史が連綿と続いてきた末端にいる、自分という存在の奇跡」
みたいなもんが ぐわぁ~っと押し寄せてきちゃって、マイッた。

まだスーパーで缶詰の棚から「第九」は聴こえないから、こういうのは別に日常の延長だろう。平気平気。(笑)

記事を改めた方がいいのかもしれないけれど、面倒だから続けると。

お金、というものがやっぱり良いエネルギーの物質化なんじゃないか、というのは
このところ、とくに今日強く強く感じた。
どこからともなく私たちが発したエネルギーによって物質が来てくれる。
そのエネルギーを見えやすい形にしたのが、人類の工夫である「お金」だなぁ~、と
この何日か受け売りでなくて実感として、思います。
前に「お金は感謝のエネルギーの物質化」とか他の人のいい子っぽいコメントを受け売りで日記に書いたら誰かに突っ込まれたけど、今日は実感として感じるので書きますが。
お金、紙幣を触るとなんか良いエネルギーが出てるなぁ、って感じるんですけど。

あたしなんか変になってるのかな。

ここアメブロで書くならドン引かれないだろう。

【追記】

この世には明日のご飯も食べられない人もいるのにいい気なもんね、ってアタシのいい子ぶった顔してるけどダークサイドの声が言うんですけど。

だって豊かで安全に生まれちゃったんだから、まず感謝ぐらいからしか、ささやかに始められないじゃない。
一足飛びに社会貢献とか寄付とか海外青年協力隊とか行けっかよ、このダメな大人代表の俺様が。
感謝するようになっただけ儲けもんってもんだぜ。
できることから一歩ずつ、スマイルゼロ円、感謝もゼロ円。