スピ上級者(?)がいうところの 「私は(=存在=全て)愛そのもの」とか「全てを許す」って境地には
まぁ一生かかっても私はいけないかもね、と思う。
嫌いな奴は嫌いだし怒りたい事も無くなんない。

でも、「私は喜びそのもの」って感じになら時々なれてる気がする。
邪気なく子供が本当に喜んでいるみたいな手放しの「ワーイ!!」。
陶芸教室の生徒さんもよくその状態になってるな。(*^_^*)
そんな時には私も生徒さんもなんかもう、「光そのもの」ってかんじになっていて、いつもの黒さ(笑)が束の間だけど消える。
それはたぶん「降参のススメ」で黒斎さんの言ってる「魂の漂白」。
そうなってると「許す」とかそういう事柄そのものも、どこかに吹っ飛ぶ。

私はこっち方向からなら、なんとかいけそうな気がする。

「愛」とか「許す」とか大上段に構えるとさぁ、うっかり自分を責めたり焦ったり否定しそうで間違いそうで、アタシは駄目だわ。(^o^ゞ

きっと入口はたくさんあるから、向いてる方から入ればいいや、と思う。


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子供の頃からの死生観で、自分はこの世に何をしに来たのか、生きてきた事の謎や秘密は全て死んだときには解る、と思っていた。
私達は現世に島流しにあってるみたいなもんで、死は年期明けみたいなもんだ、と。
答え合わせが楽しみなので死ぬのは楽しみですらある、と思っていた。

(だから「死んだら真っ暗でなにもなくなる」「自分が死んだら世の中もなくなって欲しい」などのネガティブな死生観を持っている人達がいるのを知った時にはかなり驚いた)

今は、できれば死なないでそういう秘密を解りたいと思う。
昔に比べて「私」に未練が出てきたみたいだ。

去年の4月、台湾でみた「自分勝手だから死ぬことになる夢」の顛末みたいだ。
私は私のまま、私を超えたい・って
それは人類全てが根本で持っているありふれた願望で、目新しくもないか。

たぶん、超えた気になっても次の殻、次の殻、という感じになって永遠に超え続けるんだろうな。



以上二題、なかなか風邪が治らず毎日仕事場から直帰で寝てばかりのたこのまくらの寝床のなかからお伝えしました。