悟った人は、大笑いするらしい。

先日「青空文庫」でディッケンスの「クリスマス・カロル」を読んでいて、
「ああそうなんだろうね、やっぱり大笑いするんだね」という描写が出てきた。

有名なお話なのでネタバレもなにもないだろうからザックリ書くと、19世紀のロンドン在住のスクルージという、強欲で偏屈で孤独な金貸しが主人公。
クリスマスの晩にことさらに頑なで偏狭な態度を取ってすごしていたら、7年前に亡くなった共同経営者マアレイの幽霊が鎖ぐるぐる巻きの姿で現れ、彼に「自分の様にならないために」と警告と導き手となる3人の幽霊を遣わす。
3人は過去・現在・未来の「クリスマスの精霊」。

過去を司る精霊は子供時代・丁稚時代・若き日・壮年の主人公のクリスマスを見せ、主人公には悔恨を与え、読者にはいかにして彼の様な偏屈で孤独な老人が出来上がったのかを見せる。
現在を司る精霊は世の中のスクルージ以外の人々がいかに楽しく、いじらしく、敬虔に、にクリスマスを祝っているのかを見せ、主人公の偏狭さが本人には孤独を、人々には暗い影をもたらしつつあることを示す。
最後の未来を司る精霊は、一言も言葉を発さずにスクルージの徹底的に孤独で救われない最後を示す。
この未来のあり方がとにかく読んでいる私まで「これからはもっと人と繋がりを持とう・・・」と反省しちゃうほどえげつなく容赦なく寂しい。

スクルージはさすがにたまらなくなって、「私は過去にも、現在にも、未来にも(心を入れ代えて)生きる積りです。皆様の教えて下すった教訓を閉め出すような真似はいたしません。おお、この墓石の上に書いてある文句を拭き消すことが出来ると仰しゃって下さい!」と懇願する。
けれども最後の幽霊はそれを聞き入れようとしない。
そうして最後の幽霊ともみ合っているうちに、自分の部屋で、クリスマスの朝に目を覚ます。
以下・ちょっと長いけど少し引用します。


(自分の部屋で目覚め、未来から現在に戻り、現在を生きなおせると確信したスクルージは)
その間彼の手は始終忙しそうに着物を持て扱っていた。それを裏返して見たり、上下逆様に着て見たり、引き千断ったり、置き違えたりして、ありとあらゆる目茶苦茶のことに仲間入りをさせたものだ。
「どうしていいか分からないな!」と、スクルージは笑いながら、同時にまた泣きながら喚いた。そして、靴下を相手にラオコーンそっくりの様子をして見せたものだ。「俺は羽毛(はね)のように軽い、天使のように楽しく、学童のように愉快だよ。俺はまた酔漢(よっぱらい)のように眼が廻る。皆さん聖降誕祭お目出度う! 世界中の皆さんよ、新年お目出度う! いよう、ここだ! ほーう! ようよう!」
(略)
「粥の入った鍋があるぞ」と、スクルージはまたもや飛び上がって、煖炉の周りを歩きながら呶鳴った。「あすこに入口がある、あすこからジェコブ・マアレイの幽霊は這入って来たのだ! この隅にはまた現在の聖降誕祭の精霊が腰掛けていたのだ! この窓から俺は彷(さまよ)える幽霊どもを見たのだ! 何も彼もちゃんとしている、何も彼も本当なのだ、本当にあったのだ。はッ、はッ、はッ!」
 実際あんなに幾年も笑わずに来た人に取っては、それは立派な笑いであった、この上もなく華やかな笑いであった。そして、これから続く華やかな笑いの長い、長い系統の先祖になるべき笑いであった!
「今日は月の幾日か俺には分らない」と、スクルージは云った。「どれだけ精霊達と一緒に居たのか、それも分らない。俺には何にも分らない。俺はすっかり赤ん坊になってしまった。いや、気に懸けるな。そんな事構わないよ。俺はいっそ赤ん坊になりたい位のものだ。いよう! ほう! いよう、ここだ!」

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このタガがはずれた笑い泣きの描写が、「ああ、『落ちた』んだな」ってしみじみわかる。
昔だったらスクルージのこの描写は「西洋人は大げさだな」「そんなもんなのかな」程度にしか感じなかったと思うんだけど、「いまここ」の阿部さんの悟り体験の話や前にきみどりんのブログで紹介されていたパパジと話して悟っちゃう女性の泣き笑いの動画を見ると、これこそ本当に価値観が書き換えられ目覚めた人のリアルな描写なんだな、とよくわかる。

阿部さんの「悟り体験」語り
http://www.youtube.com/watch?v=vv8yghRZfYo&feature=relmfu

パパジとお話しして悟っちゃう女の人
http://www.youtube.com/watch?v=H14cQg1jTcs&feature=player_embedded

ディッケンズもそういう体験をしたことがあるのかもしれないし、そういう人を見たことがあるのかもしれない。
スピ的視点を持つようになってまた深く文学作品を楽しめるようになったのは嬉しいことだ。

「クリスマス・カロル」の最後の章は今までの重苦しさを吹き飛ばすような明るい描写に満ちていてどの文も引用したいくらいなのですが、ここのパートも好きなのでシェア。

(スルージは人が変わったように楽しくて気前が良くて善い人間になるわけですが)・
ある人々は彼がかく一変したのを見て笑った。が、彼はその人々の笑うに任せて、少しも心に留めなかった。彼はこの世の中では、どんな事でも善い事と云うものは、その起り始めにはきっと誰かが腹を抱えて笑うものだ、笑われぬような事柄は一つもないと云うことをちゃんと承知していたからである。
そして、そんな人間はどうせ盲目だと知っていたので、彼等がその盲目を一層醜いものとするように、他人(ひと)を笑って眼に皺を寄せると云うことは、それも誠に結構なことだと知っていたからである。彼自身の心は晴れやかに笑っていた。そして、かれに取ってはそれでもう十分であったのである。

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こういうところも実感がないと書けない文章だと思う。
ディッケンズ自身がこういう人だったかは別として、こういう心の動きが確かにある、とわかっていることだけは確か。

ここのところ「悟る」「わかる」の体験談の情報がたくさん入って来て、自分も悟っちゃって大笑いしてみたいもんだなぁ~・とお気楽に考え始めている。(笑)