その人は「壊れたティーポット」と同じです。
その壊れたティーポット」とやりとりをするとき、あなたは手を切るかもしれません。
しかし、それは「あなたのせい」ではないのです。
「壊れたティーポットに触れると、ときどき指を切る」というだけの話です。
・・・(略)・・・
許しとは、「パーソナルに受け取らないこと」、そして「批判をゆるめること」です。だからといって、相手に責任がなくなるわけでなく、その人は自分自身を修復する方法を自分で見つけなければならないのです。
「未来は、えらべる!」バシャール・本田健 p157~158
ここは虐待などの経験者の話だったので読み流していたけれど、そういう経験のない私にも結構重要なことを言っていた。
ちょっとスピをかじっていると、何か嫌なことや嫌な人にあたると、「これは何の学びなのか」とか「自分が引き寄せているからこうなるんだ!」と自分を責めちゃったり自分を強制しようとするじゃないですか。
私はそういう傾向あります。
でも、それじゃその問題にフォーカスしちゃって、考えたり思いつめたりしてそれを超えにくくさせる。
私にとっては、最近の例で言えば「サル山問題」。
私は威圧的な男性、自分のサル山を誇示して、そこに属したがらない私をどうにか支配しようとするような存在がすごく苦手です。
思えば自分の師匠に絶縁されているのも、結局は師匠がいきなり自分のサル山を誇示し始めたのに、師匠を真の意味で尊敬していた私はついていけなくてむこうの期待する反応を示せなかったことが原因だったし。
なんで自分はよくサル山トラブルに巻き込まれるんだろう?
私の何がサル山を引き寄せるんだろう?
私にサル山でなにに気付けということなんだろう?(私の何が悪いの?)
もしかして、自分自身もサルなの?!(いやぁぁぁぁ~ん!!)
こんな思考モードに入ってしまって、いつまでもいつまでもサル山について考えた。
当のサル山のボス猿たちはとっくに私の人生から消えているというのに。
これじゃ・越えられないの当たり前だよね。
結局許すとか認めるしか問題は越えられないんだけど、「許す」って言ってもあの嫌な気分をもたらすあれをどう許したらいいんだ?とジクジク思っていたんだけど。
要は、「人の問題まで自分に引き込まなくていい」ってことでした。
サルがサルのなのは相手がサルだからで、私が「サル眼鏡」をかけてるからってわけでもなかった。
これ、つい自分が「サル眼鏡」をかけているからサルに見えたりサルを呼んだりするんだ、サル眼鏡を取りたい、取りたい、と思っていたりしたのですが・そんな眼鏡はありませんでした。
私に関係なく、サルな人はサルなんでした。
おサルをにゃんこや人間にしようと私が躍起になる必要もなかったし、おサルに「あんたおサルですから!!」って指摘する必要もないし、おサルは好きでおサルなんだし、
まさにおサルの勝手でした。
誰かがサルなのなんか、全然自分には関係なかった。
妙に生煮えにスピ視点を持つことの落とし穴だったみたいです。
もうちょっと書いたんで、続きます。