的場さんが「これで一通り話し終わったんだけど、質問はない?」とさらにお話を進めた後でおっしゃるので、
「的場さんのお話はすごくよくわかるんだけど、自分の変な苦しさが取れなくて。」と、自分のもやっとした部分を話してみる。

つまり、自分は結構充足しているけれど、下手にFacebookなんか見たら自分はサボっているんではないかと焦ってきてしまったり、正直成功していたり華々しく活動している人はちゃんと「努力」をしているけれど、そういう努力が自分のしたい努力とはちょっと違って、、、しかし成功はしたい、と。(笑)
台湾に行くにあたってもこの数か月個展の準備で全然英語の勉強もできていないし、そもそも行ってみたいけれど自分は山梨でフツーに地味に陶芸を作っていても別に幸せなんだけどなぁ、というちょっと腰の引けた感じがある、と。

要するに今までの的場さんの講話みたいな高度なお話じゃなくてもっとひく~いところの話で。(笑)
じーっと聞いていてくれた的場さん、
「そういう3次元的な競争の世界にいる人たちって苦しいんですよ。そういう世界に戻りたいですか?
あなたは光の存在なんだから『 神 の た め に 作 れ ば 』いいでしょう?」と。

あ~!!!!!!!!!
これ、自分でこの前同じようなことをまさにFacebookに書いたのでした。

とあるギャラリイストが「たくさんの人に見てもらいたいという気持ちは悪くないが、たくさんの人より1人の熱意ある、コレクターに見いだされる方が生き残る可能性が高いのでそっちを狙え」という趣旨のことを書いていて、
それを読んだ若いやる気満々の作家さんが
「よ~し!!俺も世界のコレクターに見つけてもらうために頑張るぞー!」
とか・コメントしているのを見て なんか す ご い 違 和 感 があって・思わず自分のウォールでつぶやいてしまった。

“私は今作品を「大いなるもの」に捧げて作っている。私が感じる美術の源流とは祭器・神の憑代だからだ。う~ん、どこかにいるであろう「コレクター」に向けて作っているわけではないのだ。だからアタシって×れない作家なのかね。困ったな。”


なぁんだ。ちゃんと自分でわかってたじゃん。(笑)
やっぱり答え合わせに来たんだ、今日は。
自分、ちゃんと元々は解っている人だったんじゃないか。

今回は特に忙しくて全然英語の勉強もできなかったことで妙に不安がっていたことに対しても、
「完璧で行く必要はありません。
あなたは光の存在なんだから、ちゃんとサポートされますよ。
あなたが、あなた本人が行くことが大事なんですよ、あなたが光を台湾に運ぶんですよ。
ただ、行けばいいんですよ。」
と おっしゃる。
これは私には非常に新しい視点だった。
今まで陶芸人生において「自分の作品」は重要だけど別に自分は重要じゃないと思っていたから。
「あ~、私は自分の作品が重要であって私がそこへ行くことなんかで別に何か期待されているとは思っていなかった!」
と感想を述べたら、的場さんは
「あなたが行くことで喜ぶ存在がたくさんいらっしゃいますよ。」
と おっしゃる。
その時はへぇ?と聞いていたのだが、後日その「喜ぶ存在」については台湾で確かにそうなんだな、という体験をすることになった。

まとめると、とにもかくにも私はちゃんと光の存在で、自分の心の奥底ではちゃんとわかっていることに従えばそれでいいのだ、と。

「自分一人で作るんじゃありませんよ、あなたを応援してくれる存在にお願いして、一緒に作るんですよ、一緒に作れば疲れたりしませんよ。」
と申し添えられた。