(この記事には「田舎者」に対する独断と偏見が含まれています。
「田舎者」を自負されて誇りを持っている方、逆に単純に地方都市にいらっしゃって微妙にそれが受け入れられない方には腹が立つこともあるかと思いますので、そういう方にはあらかじめお断りしておきます。
この記事の「田舎」とは私の住む山梨県某市限定のことで、「田舎」全般を指すわけではありません。)



田舎を恐る  萩原朔太郎 「月に吠える」より


 
わたしは田舎をおそれる、
 
田舎の人氣のない水田の中にふるへて、
 
ほそながくのびる苗の列をおそれる。
 
くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれをおそれる。
 
田舎のあぜみちに坐つてゐると、
 
おほなみのやうな土壌の重みが、わたしの心をくらくする、
 
土壌のくさつたにほひが私の皮膚をくろずませる、
 
冬枯れのさびしい自然が私の生活をくるしくする。

 
田舎の空氣は陰鬱で重くるしい、
 
田舎の手觸りはざらざらして氣もちがわるい、
 
わたしはときどき田舎を思ふと、
ヽ ヽ
きめのあらい動物の皮膚のにほひに悩まされる。
 
わたしは田舎をおそれる、
 
田舎は熱病の靑じろい夢である。




子供のころ初めてこの詩を読んだときから、私はこの詩の気持ちがあまりにもよくわかった。
田舎は虫がたくさんいて、トイレがぽっちゃん方式で暗くて怖く、お風呂にはムカデがいた。
田舎の人たちは人のことをジロジロと無遠慮に眺め回し、
子供がわからないような卑猥な冗談を浴びせてはゲラゲラ笑った。
人の噂話ばかりして、お茶を飲んでいたメンバーの一人が帰るとその人の噂話を始めた。
田舎の自然は一歩譲って美しいところもあるので許せたが、
田舎の人たちは子供のころ 大 っ き ら い だった。

大人になって田舎に住んでいる人たちの全員がそういう人たちであるわけでもない、と思うようにして
(思うようになったのではない、した・のだ)
田舎の人たちに慣れようとしたが。

結局慣れることはないような気がする。
田舎の人は心が狭く、陰口が好きで、僻みっぽく、人の不幸を喜んだりする。
別に暖かくも純朴でもない。
不躾で、ずるいし、偏狭で、意地が悪い。



いやぁ~、今、親戚で超苦手な叔父さん夫婦が来ていてだね。
久しぶりに「だから田舎者は嫌いだってぇんだよっ!!」と心が毒ついてしまいましたよ。

昼時に来て「昼飯は食わないのか?」って、そりゃあんた達何か出してくれってこと?
(そういうのは事前に打ち合わせてほしいよ。玄米と豆腐ときゅうりしかないんだよ)
「いや、私はまだいいから」と言ったら「いつも朝昼いっしょけ?」。
「今からお米炊くから」と言ったら「東京モンは違うなぁ~、お米を炊くのけ、ご飯じゃなくて?」
(昔「ご飯を炊く」って言ったら「ご飯を炊いたら糊になるじゃないか」と言われたことがあったな、このおじさんじゃなかったかもしれないけど。)

お線香を上げるときには「線香がない!ない!」(そこに10本くらいあるのじゃ足らないんですか、はいはい。)
ろうそくがちびていたらまた「ろうそくもない!ない!」(はいはい、いつも1人だからろうそく使わないんですよ、一人モンで気が利かなくてすみません)
お茶を出してダイニングキッチンに座らせれば、おばさんはじろじろじろじろじろじろじろじろ流し周りを値踏みするように凝視している。
(この叔母さん、いつもそうだ。自分の視線がどのくらい不躾なのか一生知らないで生きるんだろうな)
扇風機をつければ扇風機のカバーが微妙にずれていると、いきなり回っているままの扇風機のカバーをはずそうとして大騒ぎ。
(普通、止めてからやらないかな。その前に余計なお世話だよ)
話題がないのでしょうがなく従兄弟達の消息を聞けば「ええ。まぁ。」(自分側の情報は与えたくない)

唯一話せるのは畑の話題だけ。

でも茄子の肥料のやり方はためになったし、
今蒔ける野菜が何か教えてもらったのと、
おはぎを仏さんに作ってきてくれたのと
茄子ときゅうりを持ってきてくれたのは、ありがたいことでした。

悪い人達じゃないんだけどね。邪悪なわけじゃないんだけどね。ふー。