今日はおかげさまで体調もほぼ回復して、結局は昨日と同様チェーンソーや刈り払い機をぶんまわして畑の草刈りや伸び切った木々を剪定する作業に没頭する。

朝起きて一番に考えたことは「そろそろいくらなんでも次回の個展の仕込みをしないといかんだろ!」だったのだが、陶芸の事を考えようとすると頭が真っ白になってしまう。
朝の瞑想をして、「どうして陶芸に手がつけられないんでしょう」「作品の傾向を変えたいけど、2方向真逆にアイデアが突っ走っていて決まんないんですが」などと頭の中で愚痴ってみる。
な~んにもひらめかない。(笑)

あきらめてトイレに立って、ついでに朝の習慣のトイレ掃除をする。
すると心が定まってくる。
掃除や料理などの作業、草刈なんかの所謂「作務」も本当に立派に瞑想だと、今朝も思う。

心が定まって何をしたかといと、上記のように昨日の続きで畑の整備をした。
陶芸家じゃなくて早期リタイヤして悠々自適のオッサンみたい・などと自分に突っ込むけど、しょうがない。
どうも「自分自神」が畑をちゃんと仕上げたいらしいのだ。

私の山梨の家は本来跡を取るべきだった長男さんが早く亡くなって、祖父や祖母や畑や庭をきちんとしていた頃から一代抜けてしまっている。
時々叔母や叔父が手入れをしてきたが、基本放置で荒れてしまっていて、立ち木などは伸び放題のボウボウ。
叔母や母が木を切ることを意味なく嫌がることもあってジャングルみたいになっているのをチェーンソーでばっさばっさ切り、笹をガンガン刈り払い機で刈る。
ホント自給自足を目指して田舎に引っ込んだ人の生活みたい。

ふと、気がついた。

私って人生でざっくり2回、美術をやめて農業をやろうとしたことがあったのよね。
一度目は大学2年から3年になる時。
専攻していた油絵・現代美術がどうにもわからなくなってしまって、大学を辞めて民俗学か農業を勉強しようかと思った。(結局、陶芸に出会って美大に残った。)

二度目は前の前の彼が16歳も年上で、彼がリタイヤしたら一緒に千葉に引っ込むというプランがあった。
彼の叔父さんが農業をやっていて、その近くで菜園でもやりながら悠々自適、という話。
ちょうどその頃戦略的に美術でお金を儲けるという考えに疲れたり、仕事で信頼していた人に嫌な利用のされ方をして陶芸を教えるということにも嫌気が差していて、本格的に千葉あたりの農場に修行に出ようかと思った。
日本の食物自給率の低さも気になって、「美術みたいな生き死にに関係ないこと」でなくて本質的な産業に従事したいという、大学生の頃に思ったこともぶり返してきた。

それは結局その考えを彼に話したら「陶芸はどうするの?」「食べ物なんか輸入すればいいんだ」と説教されて話を聞いてもらえず、そうこうしているうちに前の彼ちゃんが好きになっちゃって(笑)、駄目になって別れた。

今ここに16歳年上の彼はいないわけですが、畑、やってますやん自分。
これも立派に私のやりたいことの1つだったですやん。

なんだか腑に落ちた。

自分は制作から逃げたくて畑がやりたかったりしているのかな、と自分を疑っていたんだけど、そういうわけでもない。
ずっとやりたかったんだ、畑。
気が済むまで畑をいじったら、それからきっと落ち着いて陶芸を始められるんだろう。

というわけで明日も雨が降らなかったら畑を出来る限りやると思う。
(ただ、明日でけりをつけたいけどね。)