ちょっと「余計なお世話だバカ」みたいなことがあって、怒りをうまく扱えない自分にイライラして、全部ひっくるめて自己嫌悪に陥ってしまった。

段々全部が嫌になって、でも作品は作らないといけない。
もう自分なんかどうでもいいや、作品だけいいものが上がればいいんだよ、
自分が別に幸せだろうと不幸だろうと作品だけ仕上がれば良いし、と。

ぶつぶつ考えていたら・ふっと思いついた。

私の作品ってあちこちの美術館に入っている。
それらは私が知らないうちに飾られてたくさんの人が見る。
私が死んだ後も、(美術館が残れば)何世紀か後になっても、誰かが作品を見て、作品について、何か感じてくれる。

もしかしてこれって凄い事かもしれない。

たこのまくら家の教育が「謙虚に」「常に慢心するな」なのであまり喜びすぎないようにしていたし、
美術館に作品買ってもらう時というのは話が来てから長いので、全て完了するまでに買ってもらった!という感激も薄れ、私の作品は高くないのでお金が入っても「ああ、これでしばらく助かる」としか考えていなかった。

でも。
私が仮に今ここで頓死したって国内外にある私の作品は変らず存在し続ける。
たくさん世界中に物を作っている人はいるけど、美術館に作品が入る人はそこまでたくさんはいない。
自分が生きた「証」みたいなものを一生追い続ける人だっていけど、そこを私はすでにクリアしてるといえばしている。

私の作品って、大手の現代画廊が付いてるわけでもないから羽が生えるようには売れない。
売れない作品ばっかり作っていると作品すら作る意味がないような気がしてきて、自分はますます社会に要らないゴミみたいな存在だなぁ、と思ってしまう時もある。
でも、少しは自分の(作品の)偉さについて評価してあげようよ、自分。

自分がどんなに至らない人間でも、自分の中味がドロドロしていたり歪んでいても、
私の作品は美術館やコレクターさんのお家で美しく存在して、見てくれる人に感動を与え続ける。
私の人生の、一番良い結晶のようなものを美術館が大事に収蔵していてくれる。
自分がどんなひどい状況の時でも関係なく自分の作品は変らず、そこで美しく存在している。

そう思い至ったら、それはとてつもない自分への救いのような気がして、しゃくりあげて泣いてしまった。
(実は今も書きながら泣いている。困)

実は作ることが自分への癒しであるという感覚は10代から作家としてデビューするまでは普通に持っていたような気がする。
だけど、プロとして活動するのに「自分への癒し」で作品作ってどうするんじゃ、オマエの社会に対する存在意義はなんなんだ?なんて考えこんで大事なところを忘れてしまっていたように思う。

このところ作品が作りたくなくて作りたくなくてしょうがなかったのは、過剰に「いい作品」を作りたくて肩に力が入りまくっていたんだと思う。
自分のコンデションを気にしすぎて、良い状態の自分でないと良いものは出来ないと頑なに思い込んでいた。
そして主に精神状態の悪い自分をなんとかしようとして、そう簡単にはなんともならない自分を憎んで焦った。

でも、これまで偶然にだけどたくさんよい作品を作ってきたのだから、後はおまけの人生だと思って淡々と自分の作品を作ればいいのだった。
自分が体調が悪くても集中できなくてもやる気がなくても、淡々と作ればよかったのだった。
自分には一貫した美意識があるんだから、あまり結果が酷ければちゃんと気がつく。
いつも自分が最高で最上でいなくたって、作品が結果としてそうなればいいんだから、もっと気楽にやればいいんだよね。

やっぱり作ることは私にとって救いであり、さらに作品は存在している事への赦しのようなものであるのだった。
作らなくても作品を残さなくても本当は人は全員存在することが赦されているんだけど、私のような小心者にはまだ「物証」が必要みたいだ。



それにしてもこんなに泣いたの久しぶりだ。
彼ちゃんにあんな酷い事を言われても涙も出なかったのに。