前の記事は移動する電車の中で携帯でピコピコ書いていた。
書きながら昔の自分がはたから観てもどれだけ挙動不審で頑なでヘンテコリンな人だったのか、自分で思い出してもいつも不安定でビクビクして自分で自分を固く縛って要らない事で苦しんでいたのか、思い出した。
ずいぶんマトモになった、と自分で自分を思わず労った。
時々思うことだが、ふっとその時また「百鬼丸みたいだ」、と思った。

「百鬼丸」。
手塚治虫の「どろろ」の主人公。
百鬼丸は妖怪と死闘を繰り広げて、勝つと、自らの手や足や目や耳を取り戻していく。
そのパーツは赤ん坊の時に父親が自らの野望のために妖怪と取引をして、妖怪に譲ってしまわれたものだ。

親がどうしたこうしたという部分で共鳴するのではなく、
百鬼丸が自分の腕からジャキーン!と刀を出して突っ込んでいくような、そんな気分に私もなるときがある。
百鬼丸が勝って、今まで自分についていた作り物の手や耳がポロッととれて、そこに自分の本物の体が出現する。
百鬼丸がしみじみと自分の体を慈しむように確認する、その万感の思いのようなものが自分にもわかると思う時がある。


倒しても倒してもなかなか妖怪が減らないのでこの秋にはとうとうシータヒーリングという他者へ助けを求める事をしたわけだけど。
(人に助けを求められるようになったじゃないか!偉いぞ。)
それでもまだ、自分が自分に戻る作業はなくならない。
なくならないけれど、今の自分の気分はジャキーンっと刀を抜く感じじゃなくて、自分の中にある温かい「源泉」みたいなものからの指令に一生懸命耳を傾けるような感じにはなった。

たこ百鬼丸の体はそろってきたのかなぁ。

いや、そろってきたんじゃなくて、自分で自分のパーツを生み出せるようになるようになってきているのかもしれない。
いや、実は戦うべき妖怪は外側にいなくて、内側にもいなくて、別にいないので戦わなくなって良いとわかってきている?

なんだかまとまりがなくなりましたが、つまり生きている痛みは本当に減ってきたなぁ、と田舎へ走る電車の中で実感した今晩のたこのまくらだったのでした。