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 「牛泥棒」オカワダアキナさん


https://c.bunfree.net/p/tokyo40/48334 #文学フリマで買った本 

「牛泥棒」表題作


主人公の「善し悪し」の判断基準は、「世間」である。
幼少時において学校や家庭で良くないとされたことは行わない。

が、時折、その「基準」と自分の楽しみや欲望がコンフリクトを起こし、混乱するも、内々で理屈をつけて自分を正当化している。たとえば、自分が楽しんでいるオタマジャクシを道に撒く(オタマジャクシは乾涸らびて死ぬ)のはセーフで、先生が子供の頃にやったというカエルを爆竹で破裂させるのは野蛮、アウトだ、とか。客観的にみて両方とも残酷な行為だが、主人公のなかでは差があり、自分はセーフだという判定になっている。
そしてそれはバレないがゆえに、糺されず、「なんとなくセーフ」のまま彼は成長する。


大人になっても彼の判断基準はやはり「世間」で、ことあるごとに普通だとか父親らしいとか男とは、と、「世間」の基準、自分の父親もそうだった、とか、これなら世間から変な目で見られないな、ということを気にしている。
一方で彼はゲイで、妻子と暮らしつつも、温水プール「ふろいで」で出会った同じく妻子持ちのゲイと関係を持つ。
このあたりにコンフリクトはない。男と関係を持つ、そう妄想するのはセーフだと自分を肯定しながら(もちろんそれはまったく問題ない)、その妄想を実行に移してしまう。
なぜなら「ゲイばれ」しない範囲においては、それは他者にとっては主人公の内面の妄想となんら変わらない、と彼は感じているらしい。……というこの心の動きが、じつに生々しい。
 

この物語を、彼のセクシャリティの問題というふうに読んでもいいのだろう、冒頭に出てきた「立ち入り禁止の産廃の山の廃液と父親の汗の臭いの類似と、その周辺に転がる小石を拾って保管する行為」「遠目に見る闘犬テント」、荒々しさ、暴力性、男らしさへのあこがれであると読める。
自分のなかの「ゲイであること」と「世間ではゲイはかならずしも受け入れられてない」という状況を「バレなければ良い」で乗り切ってゆく姿は、人間的ではある。
しかし、この世間と折り合いをつけた彼の姿は、グロテスクでもある。
妻と息子を愛しているし、生活も巧く言っていると言うが、読者はそれを信用できない。
彼の前に姿を現す男たちと違い、妻や息子の描写はない。容姿・体型・その時々の表情……男たちのそれらへの言及は丹念だというのに。

そして、男たちに抱く欲望もまた、具体的だというのに。

妻に対する彼の欲望は、描写されない。
興味がない?
そうなのだと思う。
だから生活が上手くいっていると言った舌の根も乾かぬうちに、離婚するかも、と考えている。
息子の悩みの相談を受けたときも、自分の態度が「父親らしいか」「らしくないか」の基準でしかなく、息子のことを思いやっているようすがない。
いや、その有様が彼なりの思いやりである可能性はある。が、付き合い始めた男の来し方を思いやるほどにも、彼は息子の内面を想像しない。


本来、彼が抗うべきは「世間」のはずなのだ。
が、それは所与のものとして受け入れ、できる限り「世間の常識」に従い、どうにも反する部分はバレなければいい。
そんな彼の人生は、これからどうなるのだろうか?
意外に、うまくやっていくのかもしれない。
が、ラストに見せた微かな歪み……外への攻撃性……それがどうにも、彼の「上手くやっている」人生を、違う場所へと運んでゆく一歩になるような予感がしてならない。
 

私はこの物語を、どのような問題であれ、自分の心を偽って、「上手くやる」ことに慣れてしまった人間の、歪みの物語として読んだ。

世界に起こるさまざまなことを「世間」を基準に取捨選択し、生きてゆくこと。

その一見、易きに流れている、上手くやっているように見える生き方が、やがて自身の人生を揺るがしてゆく……