「火星単身赴任日誌」オカワダアキナさん
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地球の温暖化(というのも生ぬるい)酷暑化が進み、月への移民が始まり三十年ほど、また火星への移民が始まろうとしているのが本作の時代背景。
主人公は月移民二世で、住宅ブームで住宅価格高騰中の月でなんとかマイホームを手に入れたやさき、火星に転勤を命ぜられた40歳男性。家族は日本語教師の妻とこどもふたり。ほかに自分と妻、それぞれの老親がいる。
単身赴任するしかない……という状況で、火星での一人暮らしが始まったところで物語は幕を開ける。
作品の設定はSF的だけれど、惑星間移動のシーンもないし、食べ物も居住空間も地球とたいして変わらないから、SF感はあまりない。火星の「外」はまだまだ人間向きではないため(すでにテラフォーミングの一環で植樹は始まっている)居住空間であるドームのなかにいるしかないところはSF的だけれど、そこにはラーメン屋もあるし、どんどん移民も始まっていて新しい店舗もできている。火星はまだ移民の初期の段階で、未成年者には暮らしにくいイメージはある。構成員も成人男性がおおい印象。どうやらいわゆる「社畜」らしい主人公の視点で描かれる「火星」は、あまりひろい範囲が描かれず、主人公と出会う人々との交流、そして毎日の食事(箇条書き)が描かれている。
おそらく本作のテーマは、「物理的な距離」にまつわるものではない。
この「火星」「月」「地球」というのがどういう感触の舞台設定か、というのは、本作で時折挟まれる幻想的な「日誌」の日の内容に現わされていると思う。
このSF設定ではあってもあまりSF的ではない、というのも、設定として効果だしている。
どういう意味か興味のある方は本作を読んで確認していただきたい。
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主人公が、あることから徐々に解き放たれていく、その過程を描いている。
主人公は9歳の頃から「男性の肉体に惹かれる自分」を自覚しはじめ、以来、ゆっくりと自分がゲイであることを受け入れてきた。
自覚から、それが自分を構成するひとつの側面であると言うことを受け入れるまで、どうしてそれだけの時間が掛かったかといえば、それはやはり「常識」「世間」であろう。
彼が受けてきた教育は、「自分のなかのマイノリティ的な要素は、間違いじゃ無いんだよ」というものだが、それでも「世間」にある「常識」の枷を取り払うのは難しい。
ただし「常識」が悪いというわけではない。本作ではそこを否定しているわけではない。
人間の社会は、「構成要素・構成員はおおむね均質である」という共同体の共有する「幻想」のうえに成り立っている。
「おおむね均質である」という幻想を受け入れて、「私とは如何なる個性であるか」「あなたはどんな個性であるか」を説明不要のものとし、煩雑なコミュニケーションを省略することで効率化を図っているのだ。
ただし、この共同体の共有する「常識」というのはあくまでも「幻想」であるという事実は頭の隅に置いておかないといけない。
もう一歩先に進んで「お互いの個性を認める」付き合いをしようと思うと、途端にこの共同体の共有する「常識」が邪魔をする、その困難さを描いている。
ただし、悲劇的なニュアンスはなく、オカワダさんらしい一歩ずつ、登場人物たちのゆっくりとした歩みに息を合わせて歩んでいく、そんな書きぶりの小説である。
本作において主人公がこだわっているのは性的嗜好である。
家族の目がなくなって、ずっと躊躇っていた性的おもちゃを購入し、好みの男性のやるYouTube配信を観る。
家族を裏切るとか言うニュアンスはいまのところなく、自分の性的な興味を自分のなかで処理している、という感じ。
他者との付き合いにおいて自分の、あるいは他者の性的嗜好が問題になることは、じつはほとんどないと言っていい。
だから目の前の相手が、じつはどんな性的嗜好を持っているかなど、なにも確かではない。
主人公は自分がゲイであることに自覚的だ。会社の同僚やYouTuberがゲイだったら、という想像はすることもあるけれども、「表明はしていないからやはりノンケだろう」と結論する。
自分だって表明してないけどゲイなんでしょう?
と、読者は主人公の心の動きに読みながらツッコミを入れたりもする。
主人公は最後にYouTuberに対してちょっとだけ投げ銭をして、「あなたのファンです」(意訳)とコメントを入れる。
強固な世間が共有する「常識」から、ちょっとだけ自分を自由にした主人公。
相互のコミュニケーションを図り始めることで、彼がどんな人間関係を構築していくのか、続きが楽しみである。
他人の性的な指向(嗜好)含むさまざまなことは、思っている以上に見えないものだし、見えていない以上、まるで世界は「常識」のみで構成され、マジョリティにあふれているように見えるけれど、でも確かに私も、あなたも「個性」としているんだよ、というのを軽やかに、そこはかとない希望をもって描いているのがよい…面白かった。