「ユ・・セン・・ユ先生、ユ先生。」

「ん・・」

「先生しっかりしてください、こんな所で寝てちゃダメじゃないですか。」

「え・・?」

しきりに自分の肩を揺すり話し掛ける声。

それに気付き、ウンスは重い瞼をゆっくり開いた。

「特別室に行ったきり戻って来ないから心配したんですよ。」

「私、どうして・・」

彼女は辺りを見渡した。

仮眠室じゃない、見覚えのある豪華な部屋。

分厚いカーテンの隙間から見える光。

高そうな椅子やテーブル。

ホテル?

いや違う、此処は紛れもなく自分の職場だ。

「先生、寝るなら仮眠室で、昨夜は急患がいなくてよかったけど、そうじゃなかったら大変でしたよ。」

「私、なぜ此処に?」

看護師が開けたカーテンから眩しい光が差し込む。

いつの間に夜が明けたのだろう。

「やだ、寝ぼけてるんですか、昨夜、いつもの患者が来て、先生が診たじゃありませんか?」

「私が・・?」

そうだった。

いつもの様に呼ばれて、この部屋に入った。

そして、いつもの様に輸血を・・

「ユ先生?」

ウンスは慌てて体を起こす。

「ないわ・・」

「何がないんですか?」

「血よ、血のシミがあったのよ、此処に・・」

そう言うと、彼女は真っ白なシーツを指差した。

「嘘?!輸血用の血液が漏れたんですか?止めてください先生、このシーツ、幾らすると思ってるんですか?!」

「ご、ごめん、そうじゃなくて・・」

「まったく、居眠りだけでも問題なのに、ベットまで・・・冗談じゃないわ。」

「あ・・」

看護師の不機嫌そうな顔を見て、ウンスは何も言えなくなった。

「あら、患者さんは?」

「知りませんよ、いつもの事ですけど、知らないうちに消えてるんですから。」

「そう・・」

「まあ、前払いで大金を置いて行くらしいですから、病院は文句を言えませんけど・・それにしたって礼儀があるじゃない。」

ぶつぶつ文句を言いながら看護師は点滴の容器を片付けている。

「先生、早く退いてください。」

「え、あ、ごめんなさい。」

彼女が怒るのも無理はない。

ウンスは患者のベットで眠り込んでいたのだ。

 

「夢だったのかなぁ?」

ウンスはそそくさと部屋を出ると、すっかり明るくなった廊下を首を傾げながら歩いた。

「おい、どうした?」

突然肩を叩かれ振り向くと、そこには彼女の憧れの男性が立っていた。

「あ、先輩。」

「当直だったのか?顔色悪いぞ。」

「え、はい、大丈夫です。」

「当直ぐらいでそんな顔して、医者としてやっていけるのか?」

そう言うと、彼はウンスの乱れた髪を見て笑っている。

「ははは、そうですね。」

疲れなど微塵も見せない男を前に、彼女は慌てて手ぐしで髪を整えた。

病院でも一二を争うイケメンだ。

彼目当てで訪れる患者も多い。

「本当、この笑顔を見たら病気も治りそう・・」

「何か言ったか?」

「あ、いいえ、何でもありません。」

「おかしな奴だな。」

まるで付いて来いと言わんばかりに、男は笑いながらウンスの前を歩き出す。

「ところで、どうする?」

「はい?」

「今夜でもいいぞ。」

「今夜って?」

「おい惚けるなよ、お前が誘ったんだぞ、飲みに行こうって。」

「あっ!」

ウンスは立ち止まると、大声で叫んだ。

「まったく・・」

「ごめんなさい先輩、つい・・」

やれやれと男は呆れ顔だ。

「疲れているなら別の日に・」

「いいえ、大丈夫です!行きます、今夜。」

「そうか?じゃあ、7時に○○ホテルのラウンジで、いいか?」

「は、はい!」

「その声なら大丈夫そうだな、じゃあ今夜。」

男はすらりと伸びた手をウンスに向かって振ると、さわやかな笑顔を周囲に振りまきながら去って行った。

「先輩・・」

憂鬱さを忘れ、すでにウンスの頭の中は今夜の事でいっぱいだ。

研修医時代から、ずっと憧れていた先輩。

容姿もだが、医師としての実力も将来性も、この病院でトップクラス。

彼女が必死で勉強したのも、彼の目に留まるためだった。

その男と二人で出掛ける。

「どうしよう、何着ていこうかしら・・」

ウンスは熱くなった頬を両手で抑えると、今すぐにでも家に飛んで帰りたい気持ちを必死に堪える。

油断をすば、大声で叫び出しそうだった。

「そうだわ、こんな事していられない。」

彼女は嬉しそうに走り出し、ナースステーションに駆け込み・・

山の様なカルテと格闘を始めた。

「どうしたんですか、ユ先生?」

そんな彼女を、一人の若い看護師が不思議そうに見ている。

「早く仕事を終わらせたいの。」

今夜は遅れて行く訳にはいかない。

さっさと仕事を片付け、家に帰ってシャワーを浴びて・・あ、美容院にも行きたい、それから徹夜続きでボロボロになった肌も・・

「ああ、もう、やる事が多すぎて時間が足りないわ。」

「先生、デートですか?」

さすがに若い看護師は察しがいい。

「ち、違うわよ、ただ早く帰って休みたいだけ。」

「またまた惚けちゃって、キム先生でしょう?」

「えっ!?」

「やっぱり図星ですね、ユ先生美人だからお似合いですよ。」

「違うってば。」

「誰にも言いませんから、心配しないでください。」

スマホ片手にニヤニヤ笑っている顔を見て、信用など出来る訳がない。

デート?いや、デートなら恋人同士だ、隠す必要もない。

むしろ自分が彼女になったと病院中に触れ回りたいくらいだ。

でも、まだ想いが通じたわけじゃない、ただ飲みに行くだけだ。

それも、恋人になるかならないかの瀬戸際。

これでもしフラれたら、明日からどんな顔をして仕事に来ればいい。

それを考えたら、なるべく外野には知られたくないと思うのが本心だ。

「本当にデートじゃないから、ただ仕事のことで相談があるだけ。」

「はいはい、じゃあそう言う事に、ただ先生、その首の痣は隠さないと。」

「あざ?」

「気が付かなかったんですか?」

「全然。」

「先生、それキスマークに見えちゃいますよ。」

「ええ?!嘘でしょう?!」

「鏡見て確かめてください。」

そう言うと、彼女はポケットから鏡を取り出し、ウンスの目の前に差し出した。

今時の女子は仕事中でも化粧崩れをチェックするらしい。

「やだ、いつの間に・・」

「ユ先生の事だから、どこかにぶつけたんじゃないですか、はい、如何しました?」

首を傾げているウンスを残して、看護師はナースステーションを訪れた患者の対応に戻って行った。

「変ねえ・・何時ぶつけたのかしら?覚えがないけど・・あ、時間が・・こんな事していられないわ。」

疑問は残ったものの、ウンスは慌てて仕事を片付けだした。

 

夜景の見えるホテルのラウンジ。

その場所に向かうため、ウンスはエレベーターに乗っていた。

正直、そんな大人の雰囲気漂う場所に来たのは数えるほどだ。

一度目は学生の頃、女友達と興味本位で。

まあ、素敵な男性との出会いも秘かに期待していたが、想像したほど楽しくはなかった。

その後は勉強に追われ、そんな事を考える暇もなかったが・・

二度目は確か・・

「嵌められたんだった。」

上京した母親に誘われ訪れた場所。

だけど、それは見合いの席だった。

「オンマ?!」

「勉強ばかりで心配だったから。」

そんな母の言葉を聞いて胸が痛んだ。

見合い相手も嫌いなタイプじゃない。

付き合ってみてもいいかな・・と内心思っていたが・・

結局、忙しくて電話をかける事も出来ず、自然消滅。

「まあ、医者なんて恋愛には不向きなのよね、うそ、じゃあ今日は三度目?!」

恋愛経験の無さに自分でも呆れ返る。

「はあ・・大丈夫かなぁ。」

ウンスは刻々と変わるエレベーターの数字を見上げ、大きく息を吐いた。

そして背後に映る自分の姿に視線を移す。

肩にかかる赤い髪。

首の痣を隠す為に選んだ白のハイネックのニット。

ノースリーブの袖から覗く腕には普段できないアクセサリーを付けた。

それは彼女の細い腕に似合う細いシルバーのブレスレット。

ニットに合わせて白いパールが付いている。

「いかにも付けてますって好きじゃないけど、先輩は派手な方が好きなのかな?」

今から会う男性の好みをあれこれ分析しながら、ウンスは落ち着かない。

それは普段滅多に穿かない短いスカートのせいもあるが・・

「もしかして、これってデート?」

まるで少女の様な胸のときめき。

憧れの男性に、二人きりで会うのだ。

これから待ち受ける展開など想像すら出来ない。

ましてや、ここはホテル。

「やだ、私ってば何を考えてるの。」

ウンスは飛躍し過ぎた想像を打ち消す様に大きく首を振った。

そして頬の熱を冷まそうと、手をパタパタと顔の前で動かす。

そんな時、エレベーターは目的の階への到着を告げ、大きく扉を開く。

 

ウンスは静かに息を吐くと、分厚い絨毯に一歩を踏み出した。

 

心の中にあるのは喜びと、これから始まる夢の様な時間への期待。

 

だが、ウンスは気付いていなかった。

ホテルの外から、そんな彼女を見つめる赤い瞳がある事を・・

 

 

 

 

 

 

 

 

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