病歴つづき

 

2015年9月

 

海外旅行も9月半ばで予定していたため、旅行が終わってからの方がいいかな?などと思い、旅行後の9月末頃病院に電話した。

改めて手術の日取りと勤務を確認すると、10月の初旬しか予定がとれず、まぁいいか的感覚でいた。

このころ腫瘍は、今の息子の手のひら位(5歳児)。更に形が歪になり根が張る様に、下に下に腫瘍の境界が迫ってきていた。

そして「帽状腱膜下、腫れ」というキーワードでネットでこのころは必死に検索し、「血種」等という良性な腫瘍という検索結果であったので、ちょっとだけ安心していた。

 

2015年10月

 

10月7日・・?(しっかりと覚えていません)

手術の前に、医師からは「もしかしたらデスモイド腫瘍かもしれない。良性悪性の中間の性質をもつけど、しっかり取れたら再発はない」

「ん?デスモイドってTOKIOの国分君が罹患した?」とふと疑問に感じたがこの時も深くは考えなかった。

そして全身麻酔下で手術が行われた。

麻酔から覚めると医者は付近にはおらず、「先生いますか?」との呼びかけに対し、険しい表情で戻ってきて手術は成功しましたが、血管が絡んでいててこずった旨を伝えられ、それだけを聞くと私は再び眠りについた。

翌日、ドレンを抜いて何事もなく退院。傷口も相変わらず形成外科の手腕のおかげかきれいな仕上がりで、馬鹿みたいに「よかったね」と妻と

笑いあっていた。しかし前回と異なり今回は病理検査に出すと言われ、「そうですか?」的にお気楽に考えていた。

 

※デスモイドの疑いの段階で形成外科医は手を出すなっちゅーの。

 良性腫瘍以外の場合は腫瘍内切除が行われると、再発・転移のリスクが広範切除に比べて増大する傾向にあるそうです。

 

10月18日・・・・?(しっかりと覚えていません)

術後の為、仕事は所内勤務で様子見であった。

見たこともない電話番号から電話がかかってきて、電話にでると形成外科医から直接の電話であった。

真顔「海翔の父さんですか?病理検査の結果が出たのですが、フィブロサーコーマと呼ばれる物で、ご家族同行で一度病院に来てほしいのですが・・・・」

自分アセアセ「フィ?フィ?さ-・・・も一回なんですか?」

真顔「フィブロサーコーマです。」

自分えー?「フィ?フィ?うーん英語じゃわかりませんので日本語で言うと?」

真顔「線維肉腫です。」

自分うーん「そうですか?わかりました。とりあえず年休いれて伺います。」とだけ伝えて電話を切るも自分では何がなんだか。

すぐにグーグル先生にお尋ねしましたが、5年生存率は75%位としか書かれていたなぁとしか覚えていません。

 

翌週の月曜日に形成外科に妻と行きました。

医師からは(妻のメモより)

①「希少がん」である事。

②専門医でなくてはその後の治療ができない事。

③県立のがんセンターか大学病院どちらがいいか?

④血管をはがすのに時間がかかった。

⑤被膜形成されており、被膜内での切除となった。

⑥レーザーで切除したために、断端に熱が加わり腫瘍内切除か、切除しきれたのか?がわからないという状態

など正直ぼーっとしながら聞いていました。まるで他人事の様に・・・・・・今にして思うと、自分のこととして受け入れられなかったのでしょうか?質問することもできずただ頷くことしかできず、訳のわからないままがんセンターを紹介してもらう事にした。

ここで看護師の妻が機転を利かせて「病理診断結果の診断書のコピーを下さい」等、医師と話をしていたが、正直何を話していたのかは覚えていない。

ただ一つだけ妻が医師に何かを聞くと医師は

「ごめんなさい」とだけ言った。

それ以来、この医師とは今に至るまでもこれからもあうことはない。そして病院の診察券をハサミで裁断した。

 

この後、がんセンターではなく、大学病院に紹介されたが、紹介状にはまともに経緯もかかれておらず(そりゃそうだよね、こんなズサンなやりかたでは)大学病院の初受診は告知されてから2週間近くたってからだった。

大学病院で改めて病理検査を行うと「いたるところで断端陽性」だってさ。

なぜ大学病院では断端陽性と判断できるのに前の病理検査はできなかったのか?そこまで病理医のレベルが違うのか?

そもそも断端陽性か陰性かでも対応スピードも違ってくるのに肝心なことができていないではないか?

極めつけがフィブロサーコーマでさえも病理名が覆り「悪性末梢神経鞘腫瘍 MPNST」という診断名が12月に下された。