佐賀県唐津市
以下ウィッキより
宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は、天正19年(1591年)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。秀吉は自分の地元那古野と同じナゴヤという地名を奇遇に感じ、城の立つ山の名前が勝男山と縁起がいいことにも気を良くしこの地への築城を決めたのだが、この地の領主であった波多親はこれに反対したため不興をかった。また甥の内大臣豊臣秀次に関白を譲って自らは太閤となった。9月、平戸城主松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。その築城の担当は、松浦鎮信、日野江城主有馬晴信、大村城主大村喜前、五島城主五島純玄であった(宇久純玄はこの年、姓を五島に改める)。なお、城跡から出土した瓦に「天正十八年」の銘があるものが発見されたことから、築城開始時期が通説の天正19年より早かった可能性も考えられている。
築城に際し、縄張りを黒田孝高、そして黒田長政、加藤清正、小西行長、寺沢広高らが普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で8か月後の文禄元年(1592年)3月に完成した。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。