
昭和55年6月28日東奥日報
「戦場 私の体験 166」より
前より続く 『結局、この戦闘機の故障が、私の命を救うことになったようである。耐寒訓練でのエンストの原因は、氷点下35度もあるなかで、隊長の訓示が少し長かったため、飛び立って間もなく、潤滑油が通るどこかのパイプが凍ったのではないかと思われる。高度四千メートルでエンスト。僚機に故障を知らせて編隊を離れ、高度を二千メートルまで下げて宙返りし、落下傘降下のため戦闘機から脱出した。ところが、脱出したさい、右大タイ部が尾翼に接触したらしく失神し、真っ逆さまに地上に落下していた。
』・・後続く。
九七式戦闘機
中島 キ27 九七式戦闘機
明野陸軍飛行学校所属の九七式戦闘機乙型(キ27乙)
明野陸軍飛行学校所属の九七式戦闘機乙型(キ27乙)
用途:戦闘機
設計者:小山悌
製造者:中島飛行機
運用者
大日本帝国の旗 大日本帝国(日本陸軍)
Flag of Manchukuo.svgの旗満州国(満州国軍飛行隊)
タイ王国の旗 タイ(タイ空軍)など数カ国
初飛行:1936年10月
生産数:3,386機
九七式戦闘機(きゅうななしきせんとうき)は、大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ27。
略称・呼称は九七戦、九七式戦など。連合軍のコードネームはNate(ネイト)。開発は中島飛行機、製造は中島および立川飛行機・満州飛行機。
陸軍初の低翼単葉戦闘機として、1940年(昭和15年)前後の主力戦闘機として使用された。旋回性能に大変優れ、水平面での格闘戦では右に出る機体は無かったとされる。
開発・概要
部隊マークとして「稲妻」を描いた飛行第11戦隊の九七戦乙型(キ27乙)。始動車や地上勤務者とともに中国戦線にて
1935年(昭和10年)、海軍の九試単座戦闘機(試作機、のちの九六式艦上戦闘機)の成功に刺激された陸軍は、海軍の了解のもとに、九試単戦を陸軍用に改修させた三菱重工業のキ18を審査した。しかし、キ18はエンジンの信頼性不足などを理由に制式採用には至らず、とりあえず川崎航空機のキ10が九五式戦闘機として制式採用された。しかし旧態依然たる複葉機である九五戦では主力戦闘機としての任に耐えないため、それに代わる機体として1936年(昭和11年)4月、低翼単葉戦闘機の競争試作を中島・三菱・川崎の3社に指示した。
これを受けて中島のキ27、川崎のキ28、三菱のキ33(九六艦戦の改造機)の競争となったが、先のキ18の不採用にしこりが残る三菱は試作機の提出はしたものの熱意を示さなかった。このため1937年(昭和12年)2月から始まった審査では、水冷エンジンで信頼性に不安のあるキ28を抑えて本機が選定された。この間、盧溝橋事件が発生したため審査を急ぎ、9月に終了、1937年(昭和12年、皇紀2597年)に九七式戦闘機として制式採用された。
・・・以上ウィッキペデアより