管さんの思い出はさかのぼること37年前になる。セブンティワン(管洋志氏川仁忍氏の写真事務所)を1年2ヶ月でやめた。
カメラマンを職業として維持するには、大変な資金が必要とすることがわかってきた。しかしフリーランスフォトグラファーなんてかっこよく名乗っても、その日暮らしには違いなかった、夢は夢としても現実は甘くない。
そこでまた武蔵美同窓の谷野君からの紹介で、高円寺北口環七沿いにある「キチモプロ」という建築模型会社でアルバイトをやることになり、現場の日立東海村に原子力建築模型制作で日立出張が続いた。
76年7月調理師学校にいっていた妹が、ロスアンジェルスダウンタウン、リトル東京で日本食レストラン「栄菊」オープンに調理師協会へ日本食板前数人募集要請があり、それに一緒に行くという。
菅さんのアシスタントをしていた長谷川健郎さんから、九州産業大学の先生より管さんの方へ、台湾台北のスタジオにてカメラマンを募集してるので、誰か行ってみないか。という話が舞い込んできたという。
76年8月5日新宿京王プラザにて陳先生にお会いした。2日後にOKということで。この渡航に関しては陳先生が日大芸術学部写真科を卒業して台北にスタジオをオープンしてから前任者がやめたことで、その後釜として小沢先生より土田作治郎さんへ、それから管さんに話が来たものだった。それで推薦していただいた。
台北市新生北路にあった創映企業公司のカメラマン配属となった。最初の仕事は台湾松下電気(国際牌)の1977年中華民国暦六十六年のカレンダーの撮影。
旧正月に一時帰国、管さんの事務所「アトリエゾロ」にて報告会を開いた。大川奘一郎さん、大久保ひさこさん、安保さんスクーロック美恵子さん松村さん原さん鈴木君橋野君長谷川君渡辺さんたちが集まってくれた。
民国66年台湾松下電気のカレンダーを撮った。
