管 洋志(スガヒロシ)氏 | 田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

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青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

写真家 管 洋志氏の訃報を聞いた。信じられない。
田子町はギルロイ市との姉妹都市締結25周年となる。このつながりにも、目にみえないものが働いている。いつも思っていることであるが、人生とは色々な縁、出会いにてまわりまわっていくものだと。
 思い起こすと、八戸高校を4年も在学中(落第ということで)カメラマンを目指した。武蔵野美術大学に進学を決めて、上京したのが45年前。ムサビの短大に写真専攻もあったので、オヤジには「これからの家具はデザインが重要である」と嘘?をついて、本音はデザインの他に写真も入っていたから、どうしても行きたかった。
 しかし昭和40年代は最悪であった。70年安保闘争という東京に踏み込んで、大学も半年以上もロックアウト状態(閉鎖)にて、東京生活うんざりした。いろいろバイト(配送運転手、テレビ舞台大道具、バスの床貼り、など)で生活費を捻出していた。
しかし、カメラマンになりたいと夢を目指していた青春時代であった。
 1974年(昭和49年)2月19日武蔵美短大同窓の静岡県浜松出身の谷野君がカメラマンの助手という仕事があるけど、やるか?ということで次の日、管洋志さんと面接した。
 新宿区一丁目の現在花園小学校の向かいにあった事務所の隣に『セブンティワン』という写真事務所で、管洋志さんと川仁忍さん共同管理の事務所であった。
 谷野君は松本徳彦写真事務所にて働いていたばかりで、この事務所に隣接したアパートで2階の窓から行き来出来るようになっていた。、
 早速次の日21日に管さんの撮影について行く。その後フィルム現像する。ハウス会社のインテリア撮影、四谷スタジオにてヌード撮影。講談社の週刊現代のヌードページは毎月。毎日いそがしかった。川仁忍さんはフォーク歌手(岡林信康、井上陽水、海援隊などなど)のジャケットを撮っていた他に多方面の撮影の仕事が入っており、NHKの趣味と園芸で盆栽の撮影もしていた。
 カメラマン助手の仕事はあくまでも仕事をおぼえることで、お手伝い料ということしかもらえなくアパート代を払えないので、毎日曜日には、ビルの清掃作業のバイトをした。当時億ションといわれるくらいの高級マンションがどんどん建設されていた。その完成前の清掃の仕事である。 
 カメラマン助手という仕事で、持っているのはようやく買ったペンタックス。早くニコンを持ちたいとおもっているが、全く手がでないくらい高価であった。ニコンをもっていないとカメラマンと見てもらえない時代でもあった。


注釈:松本徳彦氏 1963年にフリーランスとなり、数々の舞台写真を撮り、 舞台写真の第一人者となる。越路吹雪さんの写真も舞台写真からプライベートまで多数の写真を撮られています。

↓下の写真は松本徳彦事務所にて、セブンティワン事務所、松本スタジオ、K2スタジオ合同アシスタント歓迎会だったようで写真家助手達が集合した飲み会のようだ。管、川仁さんの先輩にあたる『K2』スタジオ(熊切圭介、木村恵一)の事務所に、22才の新人が参加した。真面目な青年であるのはおぼえている。 ところが2001年1月26日午後7時すぎに新宿区新大久保駅にて線路に落ちた人を助けようとし、電車に轢かれて死んだカメラマンというニュースがあった。一緒に死んだ韓国人留学生だけがクローズアップされたようだが、昔のアルバムを引っ張り出して見ていたら「あのひとか」と思った。あの真面目なカメラマン関根史郎さん(享年47才)であった。(右から2番目)
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セブンティワン事務所にて管洋志さん(29才)、川仁忍さん(29才)、大川奘一郎さん(26才)と助手の松橋24才、鈴木23才、安達23才
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http://www.47news.jp/news/photonews/2013/04/post_20130411205328.php