このボイルハイツという場所はリトル東京に近いことで、戦前は多くの日系人が多く住んでいた場所で、徐々に郊外へ引越しすることで、その一角だけ、日系人が住んでいてアパート経営していた、新しく入ってきた日本人がそこに住み着いた。
「マンザナ収容所跡地での慰霊祭」を撮影しに行ったのは、1978年4月22日(土)。朝早く訪問するバスがリトル東京から6時出発するとのことで決まった。ラスベガスの方向にて昼過ぎについた。そこで撮影したカットは白黒のフイルムなので、帰ってきてからダウンタウン「リトル東京」にある写真屋にて現像を頼んだ。「宮武東洋写真スタジオ」という写真屋こそ、有名なマンザナ収容所内にて記録を許された人物の店であったことは、後で知った。

田子に帰ってきてから、歴史ある「田子写友会」に入会し、もう取り壊された公民館別館(旧中央公民館)の二階の一室を写友会の現像できる部屋として確保してあったので、そこで現像した。
田子写友会では毎年、写真家秋山亮二先生を審査委員長にして写真展を開催していた。そこに提出したところ、特選をとってしまった。まがりなりにもプロのカメラマンの経験があったことで、これはまずい事をしてしまった。。
ということで写友会を脱会した。こともあった。にんにくまつり会場


にんにくまつり会場


にんにくまつり会場


祭りの出店


祭りの出店


祭りの出店

