レタスキング物語-6 | 田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

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青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

さらに,1931年(昭和6年)には,南山田貿易商会を設立した。本店を横浜に置き,日本から肥料,食料品,雑貨などを輸入して事業を広げていった。
 このように,サンタマリア平原の日本人は発展していったのであるが,これに対しては白人の反動や反感があった。1913年(大正3年)には排日土地法が制定され,歩合耕作,現金借地とも禁止されてしまった。1929年(昭和4年),世界恐慌では農産物は売れず,価格は低下した。これに対して,1931年(昭和6年)農家大会を開き,当初ガダループ日本人農業部であったものをガダループ農業組合として結成し,不況を乗り越えていった。役員には,組合長に荒谷節夫,副会長には南弥右衛門,乙井益之助ほかが就いた。同組合は,ロサンゼルス市場への出荷調整のためサンルイス及びランポーク両組合と協力し,中部沿岸連合農会を組織し,南カリフォルニア中央産業組合に加盟した。その結果,借地代交渉,労働賃金問題,ドラック(運送)統合等,日本人農家に大きく貢献することになった。1940年(昭和15年)頃のサンタマリヤ,ガダループ平原における日本人農家は,独立農家75余戸で,その投資総額は約200万ドル,1ヵ年生産額は750万ドル内外と推算された。主要農産物はレタスが中心で,セロリ,キャベツ,ブロッコリー,カリフラワーと続いた。
 野菜は市価の変動が激しい。南弥右衛門は,全米にわたる作物の流通状況,作柄,天候など様々な要素を勘案し,常に適切な判断をしてきた。特にレタスは年間で連続耕作が可能で,広大な設備を駆使し,市場の出荷情勢を見極めた上で有利に取引が行われた。南弥右衛門が「レタス王」と呼ばれるようになったゆえんである。