赤穂四十七士が吉良邸にて討ち入った(事件?)を起こした。宝井其角が同時代に生きて、接点があった。

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【宝井 其角(たからい きかく、 寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日〈一説には2月29日〉(1707年4月2日))は、江戸時代前期の俳諧師。
本名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。
]江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた。延宝年間(1673年 - 1681年)の初めの頃、父親の紹介で松尾芭蕉の門に入り俳諧を学ぶ。はじめ、母方の榎本姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改める。
蕉門十哲の第一の門弟と言われている。芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。
芭蕉とは違い、酒を好み作風は派手で、平明かつ口語調の洒落風を起こした。しかし、博覧強記の其角であるが故に、句の解釈に取り掛かろうとすれば、その中に隠された難解さに驚かされる。
赤穂浪士討ち入り前夜、四十七士の一人・大高忠雄と会い、はなむけに「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対して源吾は、「あした待たるるその宝船」と返して、討ち入り決行をほのめかしたとされる。宝永4年(1707年)永年の飲酒?によってか47歳で亡くなったとされている。】・・以上ウィッキぺディア
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