前略
なぜなら、高杉は文久2(1862)年に、阿片(あへん)戦争の南京条約で開港した上海の悲惨な現実をつぶさに見る機会があったからだ。彼は、上海が英仏の「属地」のようになり、中国人が頤使(いし)される現実に衝撃を受けていた。「支那人は尽(ことごと)く外国人の便役となり、英法(イギリスとフランス)の人街市を歩行すれば、清人皆避けて傍(かたわら)に道を譲る、実に上海の地は支那に属すと雖(いえど)も、英仏の属地と謂(い)ふもまた可なり」(「遊清五録」より)。日本人も中国を見舞った悲運に陥らないとも限らない。事件の本質は「支那の事にあらざるなり」というのである。
中略
中国が今度の尖閣事案で日本を脅迫した手口は、パーマストン首相やオールコック公使の幕末砲艦外交の手口に酷似している。パーマストンは外相として阿片戦争を仕切り、日本を離れたオールコックは中国公使として“活躍”した。中国は自らを植民地化した英国の手口を外交史からよく学び、日本は高杉の勇気ある経験を生きた教訓とする意欲を失って久しい。
後略
以上 産経ウェブよりコピペ
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福沢諭吉が中津藩のことを書いている「旧藩情諸言」には
江戸時代の士農工商なかでも「士」の身分の違いで足軽は小役人になるのは簡単であるが、上等士族に対しては、雨の中で会ったときには下駄を脱いで道端にて平伏する。とあるしまた、上士の家に行ったときは次の間より挨拶して刀を持ち込まず。これが上士のものが下士の家に行けば座敷まで刀を持ち込めるのが作法であると書いている。印籠が出てくる物語の風呂場シーンのドラマを江戸時代だと錯誤している人にとっては「士」の中の上下関係が固定化されていたのは、想像できない。
明治維新をやり遂げた者達は当時の上海の状況を見てき帰国したものが多い。彼ら下級武士の若者たちからみると、かの地で目撃した光景は、まさに日本の「士」の身分の違いを見せ付けたもので「上士にあたるものはイギリスフランス人」である。
天保五年(1835年)生まれの諭吉の感じていることは、当時の日本の武士社会で味わっている「足軽が平士に対し、徒士が大臣に対しては、直にその名をいうを許さず、一様に旦那様と呼びて、その交際は正しく主僕の間のごとし、・・・略」
という理不尽な世界だと感じ出していた。
関が原以降戦がなく「士」階級は存在感がなかったが、幕末になり虐げられていた「下級武士」の末裔達は「侍」であった。

今の政治家に「侍」を求めてもねえ