
またまた出ました、自分は長州藩の流れであるので、「奇兵隊内閣」と自ら名づけた。
それでは奇兵隊はと調べてみると
●【奇兵隊(きへいたい) 日本大百科全書(小学館)より[ 執筆者:広田暢久 ]
1863年(文久3)6月高杉晋作(しんさく)によって創設された長州藩最初の民兵隊。同年5月長州藩は攘夷(じょうい)を決行し、下関(しものせき)海峡を通航する外国船を砲撃した。このため同月から翌月にかけて米・仏艦から報復攻撃を受け、下関前田砲台が一時占領されるなど苦戦を強いられた。この難局を打開するため、藩府は謹慎中の高杉晋作を登用。高杉は下関の豪商白石正一郎宅で藩府の正規軍とは異なる民兵隊を組織し、奇兵隊と名づけた。奇兵隊は身分にこだわらず、武士、陪臣(ばいしん)、百姓、町人の中から、500名の有志の者を募って組織し、高杉が総督となり、幹部には実力のある者を任命した。庶民の参加者も多く、これまであった有志の集団、光明寺党などもこれに加わった。隊士は武器と俸給が藩から支給され、庶民出身者も苗字(みょうじ)帯刀が許された。奇兵隊の駐屯所は最初は下関に置かれたが、のち厚狭(あさ)郡吉田村(下関市大字吉田)に移った。1865年(慶応1)の藩内の内訌(ないこう)戦には諸隊方の主力となって戦い、翌年の第二次長州征伐時には豊前口(ぶぜんぐち)の戦いの主力軍として活躍し、小倉城を占領した。続いて68年(慶応4)戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに参加、さらに北越戦争で奮戦した。このため戦死者77名、戦傷病死者61名、負傷者約199名を出した。翌年兵制改革により諸隊は解散された。奇兵隊はじめ諸隊士は解散に反対し、脱隊騒動を起こして藩府軍と戦ったが、やがて鎮圧解除された。】
そのほかには
◎江戸時代後期の幕末に結成された長州藩の部隊
◎会津戦争のときに会津藩が維新政府に抵抗するためにつくった部隊
◎西南戦争のときの西郷軍が組織した部隊 があった。
文久3年(1863年)6月7日。長州藩は高杉晋作(25歳)の献策を容れて奇兵隊(きへいたい)の創設を命じた。奇兵隊とは、非正規軍という意味で(「奇妙な兵隊」ではない)、藩の正規軍には入れない下士・陪臣・足軽・小者・農工商階級の者を募集して編成された。長州藩ではこの年の5月10日から下関海峡を通航する外国船に対して砲撃を繰り返していたが、反撃を受けて藩船が撃沈されたり、陸戦隊に上陸されるなど、対外的な危機感と共に民衆の郷土防衛意識が高まっていたという。奇兵隊に続き、7月には金剛隊、10月には遊撃隊、集義隊、12月には八幡隊などが結成され、これらは「諸隊」と呼ばれた。また、村役人の発起で自主的な郷土防衛隊となる農兵隊も結成された。・・・・以上ウィキぺディアより
およそ142年前の日本の勝ち組長州藩(山口県)薩摩藩のやってきたことを「すべて良かった」とは到底いえない。まさか平成の世の中で、長州藩出の**が南部藩出の**を攻めまくるという「ディジャブ」とみえるようだ。
9ヶ月前に政権交代を維新だと「メデァがもちあげた」その合言葉は「旧政権のやることを排除する」『ジミンガー』であった。しかし6月8日に生まれた政権は「小沢的なるもの排除」であった。がしかしその旧政権(小鳩)の残党を排除できずに「脱**」としているが「隠**」となっている。それこそ『コバトガー』の合言葉がでるだろうか。
