なんとボクは50になった。
「老人」は言う。
「収容病なんだ。
彼はここに50年いた。50年だぞ!
ここが家だ。ここでは一目置かれている。
・・・
この塀は魔物だ。
初めは憎む。次に慣れる。
そのうち依存するようになる。
それが収容病だ。
終身刑とは人生を奪う刑だ。人生のかなめを」
(レッドの言葉/『ショーシャンクの空に』より)
「脱・構築」と言った人がいたが、
ボクは詳しくは分からないが、それは哲学的だな、と思う。
「青年」は、「思想化(構築)」しようとしていた。
そんなハリボテはハリボテに過ぎないことに打ちのめされるまで。
思想と哲学は真逆のものだ。
「青年」はそのハリボテを何とか強固にして、
バリケードを構築しようとしていた。
これで大丈夫。。
しかし、構築しようとすればするほど、
自らの重さでそれはどこか綻び、
さらにはその綻びを補修することが人生だと錯覚し始めた。
<分裂>が始まったのだ。
ハリボテはそもそもが傷だらけだ。
その「補修」は<私>一人では間に合わない。
<分裂>は人を巻き込む。
青年には恋人ができ、子が生まれる。
<分裂>は伝染病なのだ。
だが、
「少年」は知っている。
それがやはりハリボテに過ぎないことを。
この「世界」はハリボテで出来ている。
「眠ったまま夢を見続けることを
世界はいつも強要している。
私は疑いを持ち続ける事を躊躇(ためら)い、
それを罪だと感じていた。
世界に生かしてもらっているという
引け目があったからだ・・・」
(金原ひとみ/『コインロッカー・ベイビーズ(村上龍)』解説より)
「生きる」とは何か。
それは「脱・生かされている」だ。
それが、<意志>だ。
「生かされている」と諦めるのはまだ早い。
それはまだ先?の話だ。
「生きる」時に初めて「生かされている」と
同時に感じるのかもしれない。
「生きる」にはまず死ななければならない。
そして死ぬためには、 まず何よりも目を覚まさなければならない。
眠ったままでは死ねないからだ。
目を覚ましたならば、
<私>がコインロッカーの中にいることに気づくだろう。
「結局、どっちを選ぶかだ
生きるのに励むか
死ぬのに励むか 」
(アンディの言葉/『ショーシャンクの空に』より)
深い絶望に数十年かけて穴をあける。
その意志力は、意志する持続力は、
つまり「生きる」モチベーションは、
どこから来るのか。
それは「生かされている」という偶然(冤罪)、
その不条理と戦うモチベーションである。
絶望と希望は同じ地点にある。
ボクは友情とはそれを指し示すことだと思っている。
「意志」が可能であるということを。
アンディ、有り難う。
そしてこれからボクは愛すべき友人たちに
それを指し示すことが出来るだろうか。
なによりもボクは穴を掘り続けなくてはならない。
それは遅々として進まないし、サボるし、
すぐに習慣性に堕する・・・
この目を覚まそうとしている<ボク>が、
またその深い眠りに落ちてしまえば、ボクはゾンビに逆戻り。
「構築」はゾンビの仕事。
コインロッカーの中で、ショーシャンクの中で、living dead。
ボクのワークは、間違いなく別のところにあるはずだ。
それは、
コインロッカーからの<脱獄>。
ハシとキクは、
クロとシロは、
そのために走った。
コインロッカーの<外>が実在するのか?
そんなことは分からない。
<外>に出ようぜ!
出られるのか?
原理的にそんなことが可能なのか?
そんなことは分からない。
だがしかし、
「<外>に出ようぜ!」
「今も私はコインロッカーの中にいる。
外に出る方法は分からない。
この世界全体がコインロッカーならば、
出る事など不可能なのかもしれない。
けれどコインロッカーの中で暗闇を見つめ
声を上げ続けなければならない。
・・・
私も必ず何かしらの方法でコインロッカーを、
世界を破壊する事が出来るはずだ。
自爆してもいい。とにかくこの世界を破壊したい。
コインロッカーを爆破したいという気持ちを捨てたら
全てが終わりだ。必ず、外には・・・
・・・
眠るとは、意識を失うことだ。
私は眠るのも気絶するのも死ぬのも嫌だ。
常に目を開け全てを意識していたい。
全てを見つめ、その全ての中にいる 自分を見つめたい」
(金原ひとみ/『コインロッカー・ベイビーズ(村上龍)』解説より)
人間は眠りの状態にある。
目覚めぬうちに彼は死ななければならないのか。
(モハメッド格言集)
備考※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ショーシャンクとは、
映画『ショーシャンクの空に』における刑務所の名前である。
ショーシャンクは、我々の住んでいる世界(日常)の
メタファー(たとえ)になっている。
さらにボクは、この刑務所の塀を「自我」のメタファーとして捉えた。
村上龍の傑作小説『コインロッカー・ベイビーズ』についても同様である。
文庫新装版における金原ひとみの解説は
その意味でも秀逸だと思えたので引用させてもらった。
なお、ハシとキクはこの物語の主人公の双子である。
我々の世代では衝撃的で有名な事件が題材になっている。
彼らはまさにコインロッカーで生まれた(に捨てられた)。
最近(2018.06)、同様の事件が起き、
何だか象徴的な印象を受けたのはボクだけではないはずだ。
ただし今回は死体であったが、、これも現代の象徴のようだ。
誤解を恐れずに言うが、
ボクはそれでもなお、この母親を責める気にはなれない。
彼女も恐らく「コインロッカー」の中にいるのだ。
逆に捉えれば、彼女が出産した場所「マンガ喫茶」は、
この日記におけるコインロッカーやショーシャンクの
メタファーになっている気がしてならない。
ちなみに、クロとシロは松本大洋の傑作マンガ
『鉄コン筋クリート』の主人公の二人です。
この物語も『コインロッカー・ベイビーズ』が意識されているように
感じるのはボクだけかな。
>「生きる」にはまず死ななければならない
黒澤明監督の名作に『生きる』という映画がある。
以前◉意志論1という文章で話したことがあるが、
この主人公は死を宣告されて初めて「生きる」。
彼の人生も振り返ればまさにショーシャンクの中であり
コインロッカーの中だった。
彼が働いていた「役所」もまたショーシャンクと同じメタファーである。
この映画で象徴的なシーンがある。
彼が「生きる」直接的なきっかけの場所となった喫茶店、
その背後で、女子高生の誕生会だろうか「Happy Birthday」を歌っている。
ボクはこれを二度目の誕生日と名付けた。
一度目の誕生日は偶然である。言わば不条理である。
それが元々コインロッカーの中であるのか、
人間の性(さが)であるのか、それは分からない。
彼のショーシャンク(役所)でのあだ名はミイラだ。笑
ボクはここではゾンビ living deadと呼んでいるが、、
考えてみれば、ジョージ・A・ロメロ監督の傑作
『Night of the Living Dead』や『Dawn of the Dead(ゾンビ)』も
同様のメタファーだったに違いない。
彼らは眠ったままショッピングモールに集まってくる。笑