依存性へ贈る言葉(『意志』論2) | エニアグラムと哲学のTakkme

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◉9つの性格タイプ論としてのエニアグラム
◉神秘と哲学の両輪

このブログはボクの<症状>である。

 

 

 

さて、

<症状>とは何だろうか。

コトバである。
人間というのは不思議なモノで、
ある事象に名付けることによって、
その<名(コトバ)>が現実だと思ってしまう。

以前に
「猫」と名付けてしまったがゆえに、
「猫」というコトがあると勘違いしてしまうことを書いた。
『本質』論


現実には「猫」は、ない。

このことは、人間のコトバもっと言えば「言語活動」自体が、

<症状>の最たるものだということに

非常に関わりがあるとボクはかんがえている。
いや関わりがあるどころかコトバの発祥(発症?)そのものだ。
 

 

 

 

 

さて、精神分析では、
この<症状>というものをどう見るか。


精神分析では、
<症状>を問題そのものとは捉えない。
むしろ「問題の解決」と観る。

(実はこれは精神分析に限ったことではないとボクは思う。

 例えば「風邪」はどうだろうか。
 この<症状>としての「熱」や「せき」は、
 風邪である身体の何かを「解決」するために現れたものとも考えられる。)

 

 

 

 

分かりやすい例を挙げよう。

「アルコール依存症」という<症状>を持っている人がいるとする。
精神分析では「アル中」そのこと自体を根元的な問題だとは考えない。

その人が「飲酒によって自身の何を解決しているのか?」と観る。

つまり<症状>はその人の何かを解決するために表現されている、と考えられる。
これは考えてみれば当たり前のことだが、本人はなかなかそこに焦点が当たらず、
「アル中はいけないことだ」と心のどこかで思っている。
もし本当の意味で「アル中は素晴らしいことだ」と思っている人がいるとすれば、

それは「アル中」ではないだろう。

精神分析に出来る事があるとすれば、
飲酒が彼や彼女の苦しみとどのように関係しているのかを
理解しようとすることである。
そしてその自己観察を本人に促すことではないだろうか。

 

もちろん説教することではない。笑 

むしろ逆なのだ。
説教で解決しているのならばそもそも「アル中」になどなっていない。笑

 

 

理論的には、その上で本人が「アル中を選ぶ」ということもあり得る。
(これは実際には多少疑問だが、少なくともこの場合「軽いアル中」にはなっているのかな、

 と思ったりもする)
いずれにしろ精神分析が、あえて「そのままでいる」という選択又を本人に対して残すのは

当然どころか非常に重要な事だと思う。でなければ説教と同じである。
精神分析は「答え」は持っていないのだ。
そこは「哲学」と似ているところだ。

「答え」はその問いを発し観察した自分自身が見つけるものだ。
つまり「自由」であることに気づく、ということである。
もっと正確に言うならば
「どこまでが」自由であるかに気づく、ということである。



コトバの問題で言えば、
現実には「アル中」は、ない。

それは「コトバ」である。

 

「アル中」は自分が(他者との関係によって)創り出しているのだ。
その仕組み自体を看破しようとするのが「哲学」である。
やはり「精神分析」と似ているとボクは思う。




さて、「アル中」は分かりやすい。
問題は我々の「言語活動」そのものが<症状>の最たるものであるということだ。

ボクが今まさにこのブログで言語活動としての日記を書いている。
これはボクの<症状>である。

ボクの自己観察は、この<症状>がボクの何を解決しようとしているのかを問う事にある。

問題は外にあるのではない。アベやトランプにあるのではない。常に<内>にあるのだ。

 

 

「言語活動」は通常、自我の奴隷である。
自我というのは常に、

苦痛(トラウマ)と向き合わないための代替案を必死で構築しようとしている。
その代替案が人間の「言語活動」というわけだ。

だから「言語活動」とは、
その人のトラウマが姿を変えて回帰してきたものだとも言われる。


ちなみに<観察>とは「考える」ことではない。
「考える」ことはむしろ「言語活動」に近い。

それは単に「観る」ということだ。

 

 

 

ちなみにこのブログで扱っているエニアグラムとは

この<症状>の分類と言ってよい。
 

 

 

 

 

さて、

今日の日記に関する究極的な例がある。
素晴らしいので引用したい。

 

30年間、凄いヘビースモーカーで苦しんできた男が
あるインドのグルのもとを訪れた。
彼は、医者にもこれ以上吸いつづければ命の保証はないとまで言われている。

 

でも実は、この「ヘビースモーカー」の部分はなんでもよい。

アルコールでもギャンブルでも。。

 

 

 

 

 

彼は病んでいた。

 

彼は人一倍努力はしたがたばこをやめることができなかった。
彼はささいなことも出来ないと分かって
自信をすっかり失っていた。


「どうしたらいいのでしょう?
どうしたらたばこをやめられるのでしょう?」

 

 

グルは言う。
 

 

「たばこをやめることなど出来ない
 あなたは<理解>しなくてはならない
 今となっては、たばこを吸う事はただの意思決定の問題ではなくなっている
 それはあなたの<習慣>の世界に入り込んで根をはっている
 30年というのは長い歳月だ
 それはあなたの体内に、あなたの化学物質の中に根をはり
 体のすみずみに至るまで広がっている
 それは、あなたが頭で決定するだけの問題ではない

 あなたの頭は何もできない それは無力だ

 それはものごとを始めることなら出来るが、
 やめることはたやすくは出来ない

 いったんたばこを吸い始めて、そんなに長く実行したとなると
 あなたは偉大なヨーギだということだ 
 30年もの喫煙実修!

 それは自律的なものになっている
 あなたはそれを<非習慣化>しなくてはならない
 <非習慣化>------それこそが瞑想の何たるかだ」


グルは続ける

「ひとつそれをやってごらん
 やめるということをすっかり忘れるのだ
 それにそんな必要もない
 30年もの間あなたはたばこを吸って生きてきた
 もちろんそれは苦しみだった、が、慣れてしまってもいる
 しかし、たばこを吸わずにいた場合より数時間早く死がやってくるとして、
 それが一体何かね?
 そこであなたは何をしようというのかね?
 一体あなたは何をしてきたのかね?
 さあ、肝心な点は何かね?
 月曜か火曜か水曜かに------今年か来年かに
 あなたが死ぬとして、それが何だというのかね?」


彼は答えた
「確かにおっしゃる通りです。それは問題ではありません。」

グルは続けた

「やめることは忘れなさい
 私たちは決してたばこを止めようとしているのではない
 そうではなく
 たばこを吸うことを<理解>しようとしているのだ
 だから次には、それを瞑想にするがいい」

 

 

「たばこを吸うことが瞑想ですって?」彼は言った。

グルは応える

 

「そうだ、禅の人々がお茶を飲むことを瞑想にでき、
 それを儀式に出来るとすれば、どうして出来ないことがある
 たばこを吸うことは素晴らしい瞑想になりうる」


「それを教えて下さい!」
彼に生気が戻ってきていた

「ひとつこれをやってごらん
 ポケットからたばこを取り出す時に
 ゆっくりと取り出すことだ
 それを楽しむがいい
 何もあわてることはない
 意識的に目覚め、醒めて、十分に意識して
 ゆっくりと取り出すがいい
 それから、十分に意識して
 その箱の中からゆっくりたばこを取り出す------
 昔ながらの性急な、無意識的な、
 機械的な取り出しかたで取り出すのではない

 それから、箱の上でたばこをとんとんと軽く打ちならす
 それもまったく油断なくだ
 その音に耳を傾けるがいい
 ちょうど茶釜がことことと鳴り始め
 お茶がぐつぐつ沸き立っている時に、禅の人たちがやるように
 そして、その芳香・・・
 そこでたばこの香りをかぎ、その素晴らしさを味わうがいい」



「素晴らしさですって?」彼がたずねる。


「そうだ、それは素晴らしいものだ
 たばこは他のあらゆるものと同じに神性だ
 その香りをかいでごらん
 それは<神>の香りがする」



「冗談を言っておられるんですか?」彼はたずねる。


「いいや、冗談ではない
 たとえ冗談を言う時さえ、私はふざけてなどいない
 私はとても真剣なのだ

 そうしたら、十分に意識してたばこを口にくわえ
 十分に意識して火をつけなさい

 あらゆる行為、あらゆるささいな行為を楽しむがいい
 その行為をできるだけ多くの小さな行為に分けてごらん
 そうしたら、あなたはますます多くのことに気づくようになる

 それから、最初の一服をふかすがいい
 煙の形をした<神>--------
 ヒンドゥーの人々は『食物は神なり(アンナム・プラーム)』と言う
 なぜ煙がそうでない?
 すべてが<神>なのだ

 肺いっぱいに吸い込むがいい
 これはプラナーヤマだ
 私は新しいヨーガを与えている、新しい時代のために

 そうしたら煙を吐き出し、くつろぎ、もう一服を吸い込む
 きわめてゆっくりとやるがいい


 それが出来たならあなたはびっくりする
 すぐにその愚かしさの全貌を見てとる
 他人が愚かだと言ったからではなく
 他人が良くないと言ったからではなく
 あなた自身、それを<観る>
 その観ることは、ただの知的なことではない
 それはあなたの全体(トータル)な存在から起こる
 それはあなた全体のヴィジョンになる

 そしてある日、もし落ちるのであればそれは落ち、
 もし続くのであれば、それは続く
 しかしそれをあなたが<わずらう>ことはない」




3ヶ月後、彼は来て言った。
「あれは落ちました」

 

 

「それなら」とグルは言った

「他のことについてもやってみるがいい
 これこそが秘訣だ-------
 その秘訣とは<非習慣化>ということだ

 歩くときには注意深く見守ってゆっくりと歩き
 見るときには注意深く目を見張りなさい
 そうしたら、木々はいつになくひときわみずみずしく
 バラの花は、いつになくあざやかに見える

 耳を傾けるがいい!
 誰かが話をしている、うわさ話をしている------
 耳を澄ませて、注意深く聴き入ってごらん
 話をするときには、注意深く話すがいい
 あなたの目覚めた活動全体を、
 非習慣的なものにするがいい」



「瞬間から瞬間へと生きなさい
 3週間ためしてごらん
 あなたがどんなことをやるにせよ
 できる限り全的(トータル)にやりなさい
 それを愛し、それを楽しむことだ

 おそらくそれは愚かしく見えるだろう
 あなたがお茶を飲んでいるときに
 あまりに楽しみ過ぎていてはばかげている
 それはごく当たり前のお茶なのだから------

 が、当たり前のお茶でも、もしあなたがそれを楽しむなら
 並外れて素晴らしい途方もない体験になりうる
 深い敬意をもってそれを楽しむがいい
 それを儀式にするがいい

 お茶をいれること--------
 シューシューというやかんの音に聴き入ること--------
 それからお茶を注ぐこと--------
 その芳しい香りをかぐこと--------
 そこでお茶を味わい、幸せを感じることだ

 死んだものたちにお茶を飲むことは出来ない
 まさに生きているものだけに出来ることだ
 この瞬間、あなたは生きている!
 この瞬間、あなたはお茶を飲んでいる!
 切なる感謝を覚えるがいい

 将来のことを考えてはならない
 来たる瞬間(とき)はそれ自身が引き受ける
 あしたを想い煩うことなかれ
 3週間、この瞬間に生きてみなさい」