世間では、例の透析中止のニュースが非常に話題となっています。
透析は延命治療であり、週3回長期間永遠に数時間透析療法を続けることによる苦痛を考え、中止する権利を与えてもよい、という趣旨であろう。
患者の意思を尊重したと言ってしまえば何となく説得力があるようにも聞こえるみたいだが、そこに待ち受けていた結末は「死」以外の何者でもない。
しかし、末期癌においては抗がん剤治療を行うか、治療を行わずに自然の形で看取るかの選択を与える機会がある訳であり、同じ「末期」というカテゴリーに当たる末期腎不全患者に対して権限を与えないのはおかしいのではないかと、こういう主張でしょう。
実は現在において、末期腎不全患者に対して透析を絶対に行わないといけないという訳ではありません。
全身状態不良かつ救命が困難な本当に末期の末期という方には、透析療法に伴うリスクの方が上回り、特に高齢者の方の場合は今後透析を行う場合は永遠に週3回の透析を数時間受けなければならないことと、そのリスクを話し、透析を導入しないという選択を行うことはあります。
しかし、今回は決してその状態ではない患者さんに対して中止の選択を迫られたことに問題があった訳です。
この問題、一体何が問題だったのでしょうか?
まだ調査中とはいえ、これだけは間違いなく問題だと思うのは、人の死に直結する行為を行うにあたり、現状のガイドラインを逸脱した行為を行った疑いがあることです。
ガイドライン自体が問題なのではないかという意見もあるようですが、やはり人の死の重さを考えれば、いくら問題提起をしたいからと言って、人の生き死にを選別するという重大な決断を、一つの施設、ましてや個人の判断によって行われることは決して賛同出来るものではありません。
残念ですが、おそらくこの問題により問題提起になることはなく、むしろ患者の意思決定に関してはさらに厳格になり、ますます透析導入の可否について患者さんの意思が尊重されなくなり、さらに面倒なプロセスを踏んだ上で導入または(現行のガイドラインに沿った)中止の判断が迫られることになるものと推察します。
ここまでは前置きですが、この問題、そもそもなぜ表沙汰になったかというのは、例の患者さんの件です。
最初は透析継続を拒否した患者さんの意思を尊重して、維持透析を行わない方針となりました。
しかし、呼吸困難となり息苦しさから透析再開を希望されました。
家族も再会を希望されたのだが、再開されずに緩和的な対応に終わったということです。
そのことに対して、本人は苦しみ、家族が納得していないことが問題な訳です。
なぜこのようなことが起こったのでしょうか?
実際に患者さんは納得して書面したにも関わらず納得いかない結末になったのであれば、説明と同意の過程のプロセスに問題があったからということになります。
私がここで言いたいことは、「中立的な説明と適切な意思決定」はとても難しいことだということです。
これで問題となるのは「急変時の対応」です。
要は心臓マッサージや人工呼吸管理を行うか?ということです。
例えば患者さんが非常に重篤な病態であった場合。
主治医から以下のように説明されました。
「現在非常に重篤な状態なので、いつ心臓が止まってもおかしくありません。しかし、心臓が止まった場合、心臓マッサージを行わないといけないのだが、心臓マッサージを行うと肋骨がバキバキに折れて折れた肋骨が心臓や肺をぶっ刺して胸の中が血まみれになって口からも大量の血を吐き出すような結果になるけど、そこまでして心臓マッサージをして欲しい?」
そう言われたら、おそらくほとんどの方が「心臓マッサージは勘弁して下さい」と言いますよね。
では、このように説明したらどうでしょうか?
「現在非常に重篤な状態なので、いつ心臓が止まってもおかしくありません。しかし、まだやれる治療がありますので、万が一心臓が止まった場合は全身への血流を保つために心臓マッサージを行いながら治療を行いたいですが、やってもよろしいでしょうか?」
こう言ったら、おそらくほとんどの方が「お願いします」と言いますよね。
これはかなり極端な例とは言え、もし中立的な説明を行うのであれば、この両者が完全に半分半分の説明ということです。
果たしてそれは出来ますでしょうか?
もちろん、私は中立的な説明を試みるようにはしていますが、正直に申し上げますと、患者さんによって間違いなくどちらかに偏った説明になっているものと思います。
そうなると、結局説明によって医師の都合のいい方向に簡単に誘導できるということです。
この透析の問題は果たして「死」を選ぶ決断において、中立的な説明と適切な意思決定が出来ていたでしょうか?
正直に言います。
私には出来ません。
もしそれが出来れば本当に名医だと思います。
どういう説明を行ったか、むしろ私は知りたいです。