私がずっと前から思っていたこと。
それは、「絶対に違う」とハッキリ言える技術の必要性です。
この技術は、実は医者においてもの凄く大事な技術だと思っています。
なぜ大事かと言えば、医者が患者さんに「違う」ものを「違う」とハッキリ言ってもらえないと、患者さんが困るからです。
こう思うようになったのは、理解が悪かったり、心配性の患者さんを診てのことです。
こういう患者さんを診ていると、本当にこの人は最初からこんなに理解が悪かったり、心配性の性格だったのだろうかと思うことがあるのです。
なぜなら、もしそうであれば、とてもじゃないけど日常生活を普通に歩むことが出来ないのではないかと思えてしまうからです。
私は、もしかしたら医者が、こういう患者さんの性格を作り上げてしまったのではないかと、思うようになったのです。
そう思っている中、ある先生の外来で患者さんと話している姿をたまたま聞いてピンと来ました。
その先生はとても親切な先生なのだと思いますが、説明がとにかくもの凄く回りくどいし、曖昧な説明が多い先生でした。
私は聞いていて、「ここはちゃんと違うと言ってよ」と思いながら聞いていたのですが、その先生はなかなかハッキリとそう言えなかったので、患者さんは混乱して、堂々巡りになってしまっていたのです。
実はその先生の患者さんは、非常に理解が悪く心配性の患者さんが多いのは明らかであり、原因はそこにあるんだろうなと思いました。
では、なぜこうなってしまうかというと、それは医学というのは「絶対に違う」ということを言うことが、非常に難しい学問だからです。
絶対に正しいと言い切るには、相当な裏付けが必要です。
本当のことを言えば、現時点で「絶対に正しい」と言い切れる内容は、医学の世界では極めて限られています。
仮に現時点で絶対に正しいと言える内容であっても、今後の研究により覆される可能性というのは、医学の世界には常に存在します。
なので、理論的には真の意味で「絶対に正しい」ことは、医学の世界には存在しないことになります。
しかし、問題はここから。
もし患者さんの質問に対して、正しいか正しくないかハッキリしない返答をしたら、患者さんは間違いなく混乱します。
おそらく患者さんは「否定は出来ない」とか「まずない」という言葉には、とても敏感だと思います。
それが仮に限りなくゼロに近い確率でも、こういう風に言うと、それが気になってしまうものです。
なので、ここで極めて低い確率である場合は、患者さんの理解度や性格に応じて、時にはハッキリと「違う」と言うことが、大事になることが多いです。
一つ例を挙げます。
私がある先生の患者さんを臨時で診た時のこと。
その患者さんとは初対面ではありましたが、話して30秒ですぐにもの凄く心配性の患者さんであることに気づきました。
私はその患者さんにレントゲンを撮ることを勧めました。
そうしたらその患者さんは、「この前手のレントゲンを撮った後に咳が出るようになった」と言ってきたのです。
それを聞いて私は即座に、「それは絶対にレントゲンは関係ありません!」と強く言い切りました(「絶対に」という所はもの凄く強調して言いました)。
それを聞いて、その患者さんはさすがに理解されたようで、レントゲン撮影に応じてくれました。
実は、手のレントゲンを撮影して咳が出る可能性は、本当は「絶対にない」とは言い切れません。
なぜなら、「絶対にない」と言い切るには、非常に多くの症例を集めて、しっかりとした研究デザインを立てて比較検討をしなければ、証明出来ないからです。
手のレントゲンを撮影した後に咳が出るかどうか、という研究は多分存在しないと思います。
しかし、過度に理論に拘る先生は、ここで「絶対」とは言い切ることが出来ずに、「違うと思う」程度でお茶を濁すか、下手すると、「完全には否定は出来ないが」とかいう枕詞をつけて説明してしまう可能性があります。
そうなるとこの患者さんの場合どうなるか。
おそらく今後二度とレントゲン検査を受けてもらえなくなる恐れがあります。
であれば、ここでは「絶対に」と言い切った方が、その患者さんのためになるのです。
これは、臨床よりも研究で実績を上げてきた偉い先生ほど、こういうことに陥る可能性があります。
「絶対に違う」と言い切るということは、もし外れた場合はそれなりに責任を負うことになります。
そういう意味で、かなり「強気な発言」です。
しかし、その責任と同時に、そこでハッキリと理解されなかったことによる不利益を被る責任も背負うことになるのです。
その両者を天秤にかけて、責任を持って対応するのが医者という仕事なのです。
責任を負いながらも「絶対に違う」とハッキリ言える技術を持っている医者は、患者さんのためを思って診療をしている先生だと思います。