”とうとう、嘘つきと”・・・やっぱり、そうですよね。リブログさせていただきました。 | 昆布ジャム YokotaNoo konbu ( Peace@table)

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(一社)日本昆布協会 2015年度昆布大使山中陽子が北海道のおいしい昆布で昆布のジャムを作りました。


オリンピックがやりたいなら、政府は何をするべきだったのか?

先日書いて以来、もう想像を遥かに上回るゴタゴタのうちに開会し、show must go onとばかりに日々怒涛のスケジュールで試合がこなされているが、本当に、やはりこれは検証されるべきことであろう。

オリンピックがやりたいなら、政府はなにをするべきだったのか?
それを検証しないから失敗を繰り返すのだ。

そして、ついに、アメリカのスポーツコラムニストに嘘つき!と、言われてしまった。

全ては「アンダーコントロール」の嘘から始まった東京オリンピックだが、そのなかには

「日本の夏は温暖です」

というのもあった。

日本側は10月にしたかったのにアメリカが10月はアメフトのシーズンだから夏にしろとごり押しした、というのは良く知られているが、まさになんのためのオリンピックか、というのを象徴している。
アスリートのためでも人類のためでもなくテレビの都合に合わせたオリンピック。
どこかの国の人々が大切にしてるお祭りがあったとして、テレビ局の人がやってきて、お祭りを取材するのでなく、特番作るから番組のために別の日にお祭りをしてくれ、といってるのと同じだ。

酷暑高湿度、まさにサウナのなか戦うアスリート達をどう応援したら良いのか。本当に気の毒というか、命の危険を心配してしまう。
その上水質汚染も解決されないままだったとは驚くほかない。



毎日ステイホーム、テレビで応援してます!
アスリート達は素晴らしい!
4年間(今回は5年間)の頑張りに涙!
色々あるけどオリンピックそのものに罪はない・・・のだろうか?

近代オリンピックは元々スポーツを通じてそのオリンピア精神を啓蒙することを目的としていて、極論を言えば、近代オリンピックにとって実はスポーツは手段であって目的ではない.とも言える。
オリンピックはスポーツのイベントではなく、オリンピック精神を体現するためにスポーツを使う、という考えで始まった。
しかし、オリンピックに参加することの意義が高まれば高まるほど参加人数が増え、競技が増え、規模が拡大して、開催するには大変なお金がかかるものになってしまった。

実際、1976年のモントリオールオリンピックの後カナダでは、オリンピックの負債に当てるため、1977年から30年に渡って、国民から少しずつ税金を取って補ったのだ。

あまりにお金がかかりすぎるようになり、開催希望の都市に負担がかかりすぎるために、これでは開催しようとする都市がなくなってしまう。そこで、大会運営を継続的にできるように、開催都市に経済的な負担を軽くするために、1984年のロサンゼルスオリンピックから、放送権を売ったり、一競技一社のスポンサー料を取るなど商業主義的な集金システムを導入したところ、これが莫大な利益を産み出したことが、オリンピックに一大ビジネスチャンスとしての性格をもたらしてしまい、電通などの企業に注目される契機となった。

また、新自由主義的な?お金を産み出すことはいいことだと言う現代の風潮が、儲かることに対して評価こそすれ、警戒のハードルを限りなく低くしてしまったように思う。
実際、オリンピックを開催するとその開催都市が負債を抱えることになって大変だから、開催都市に手を上げる都市が減少していたのも事実だから、ここらで一発儲けられるよ!というのもIOCとしてもセールストークとして各国の要人やら大企業にささやければ好都合になったのかもしれない。
また、自国にオリンピックを招致したい国はIOC役員に贈り物したり、便宜を図ったりするようになったり。

でも、これってなんか、戦争が始まったらが景気がよくなるぞー!と喜んでた前時代的感覚と似ているような気がする。
便乗ビジネスで一儲け。このチャンスをものにしないのは愚かだといわんばかりに、どうやったらその波に乗れるか?と腐心して、お金もうけの機会を作り出そうとするに感じ。
そしてその一儲けが莫大で、儲かる人はますます儲かるという構図。
その利益をスポーツ団体に還元するから、というがどの程度還元されるのか?
内部の事情を知るもの達と大企業には大きな利益をもたらし、後に残るのは焼け野原?
そしてますますオリンピックの過剰なショービジネス化が加速していく。

なんのためのオリンピックか?

近代オリンピックが始まって100年たち、今回様々な問題がふきだしたが、この事どもがオリンピックというもののあり方を振り返る良い機会となればせめてもの不幸中の幸いである。

貧相というか、点としてはそれぞれ工夫があるのだろうが、大きな流れとストーリー性がなく、小技が効いてるかも、だけどオリンピックスタジアムを使うというスケール感がなく、一貫性を欠いた開会式について。また、高温多湿の気候など厳しい環境や、コロナ禍渦中で入国制限やら調整日数の短さやらで、どう考えても日本の選手が優位な状況下でのメダルラッシュと報道のあり方、など、思うことは山のようにある。が、とりあえず、ここまで。

なんだか、連日どのチャンネルも祝祭ムードで、しかも日本の選手の動向ばかりの報道だが、コロナの感染者数は鰻上りで、東京では感染者の状況の数値のひどさを緩和するために、瀕死の状態になるまで重症とカウントしない方針を打ち出してるとかなんとか聞くと、敗退、玉砕続きの日本軍を、最後の最後まで本土決戦のための転進、といい続けた大本営発表を想起してしまうのはわたしだけではないと思う。