先程、4回目の緊急事態宣言は発令され、菅総理の記者会見があった。
センテセンテノタイサクヲと言われていたが、何が先手なのかな?と思った。
今の時点で緊急事態宣言をだすのが先手?
オリンピックの無観客開催が先手?
給付金を早くだすってこと?
政府がまずやることは感染防止なくして経済無し、の、腹をくくることだったのではないかな。コロナ対策の失策が全て尾を引いている感じだ。
コロナ禍における問題は多岐にわたり、こちら立てればあちら立たず、感染防止と経済救済の舵取りは難しいのは本当だ。でも、自粛をお願いし、国民の我慢の結果に乗っかって、ちょこちょこGOTOキャンペーンしてリバウンドし、また宣言して自粛お願いしておきながらなるべく早く解除、、みたいなことをしてまたリバウンドし、PCR検査も進まず、ワクチンに即飛び付くこともせず、ギリギリになってからオリンピック対策に思い腰を上げた、という一連の流れは一体何のためのコロナ対策?と思ってしまう。
黙ってじっとしていればコロナも自然に終息して、オリンピックも、やります、とおしきれば国民はそれなりに従い、始まってしまえば喜んで応援なんかしてしまうだろう、なんて、なんとなく考えていたのではないだろうか?
いろんな問題のなかでも、オリンピックは日本一国にとどまらない問題だし、世紀の祭典だし、開催には様々な効果を期待されるし、利権も絡んでる。それだけに是が非でも成功させたいことだったのだろう。
それはわかっていたことなのだ。
全てはアンダーコントロールだからもう日本は安全です。東北の大震災、フクシマ、からの「復興オリンピック」です、というお題目を唱えたときから、国威発揚とか、政府が(私、安倍が)やりますよ、という自己顕示欲も見てとれたし、必ずややる、成功させるのが至上命題となってることはわかっていた。
コロナ禍はその、何がなんでも、という強い希望をも揺るがす大事件ではあるのだけど、そのなかでもやはり、延期にはなったけどとにかくやらずにすます気は全くなかったのではないかと思う。
ならば、である。
オリンピックをやるんだ!というのがとても大きな命題なのだとしたら、政府は何をすべきだったのだろう?
オリンピックをやろうというなら本気で感染防止だろう。
感染防止しなければ、外にもでられず外から迎えることもできないのだから、ちょこちょこ経済回すより、まず感染防止。
先行するアメリカやヨーロッパを良く見れば、感染拡大したらどうなるかはわかるのに、それに比べて日本は感染者も少ないし、と、楽観していなかったか?
そして、ワクチン。
ゲームチェンジャーはワクチンか特効薬。
ワクチンだ、ってなったとき、お金積んで、頭下げて、外交の切り札を切りまくってワクチンかき集めてこなきゃいけなかったのでは?
当時のアメリカ大統領がトランプだったのは不幸だったかもしれないけど。
そして、オリンピックはやる、となった後、感染拡大のリスクが大いにあって、変異株が広がり始めて国民に不安が広がっていた。
やるなら無観客、ってさっさと判断したらもっとスッキリしたと思うのに、従来のかたちにこだわって今日の今日まで、無観客とは言わなかった。
オリンピックはやります。
やるについては無観客。
みんなステイホーム。
テレビで応援しよう!
というのをさっさと決めてしまっていれば、無観客でも大会を盛り上げるアイデアはたくさんあったのではないかと思う。
なんでも開示して、国民に協力を求めて、という態度が足りないのだ。
なるべく知らせず、なるべく穏便に、あっちの利益、こっちの利益っていう種類の気配りばかりしてるから大きな道筋から外れてしまうのだ。
オリンピックのみならず、一般的にも経済が大切、だとしても、感染防止なければ経済無し、という態度で望めばそれに沿った考えもでてこようというものだったろうに、と思う。
今回のオリンピックは安全安心とは決して言えない。だから注意深く、慎重に、厳格な感染防止策をとりますよ、といえば言い。
そして、海外からの選手団は人数を絞られ、自国の観客はいない。事前の合宿もままならず酷暑の日本で戦わなければならない。アンフェアなところがあるけど、頑張りましょう、といって上げられる思いやりと工夫がほしい。
スタジアムの大型ビジョンに視聴者からの映像を写したらどうだろう?観客もスタッフも応援団も来られない海外からの選手にも声援を届けたいね。
世界に呼び掛けて、あなたの代わりに、って、人形やぬいぐるみを受け付けてシートに座らせて写し出すとか。もうそんなことする時間も人手も足りないけど。
fb友からのコメント↓
「観客の写真の切り抜き(Cutout)を客席に並べるの、去年メジャーリーグでも幅広くやってましたよね。おっしゃる通り、政府は無観客ということは考えたくもない、というスタンスだったと思います。じゃなかったら、「Cutoutでオリンピックに参加しましょう」か何か言って、一枚千円くらいで売りつけることだってできたはず。無観客の試合を盛り上げる方法は他にもいっぱいあったはず。「コロナに打ち勝ったしるしとしてのオリンピック」とやらの開催にこだわって、状況の変化に全く対応する気がなかったんで、しょうがないですが」
オリンピックスタジアムの収容人数は68000人
cutoutは密でも大丈夫だから、68000枚並べられたら1枚1000円で一回満杯になれば6800万円の売り上げになる。
スタジアムの、試合だけでなく、各会場でも募集して、毎日、あるいは競技ごとに入れ換えればたいした収入にもなったろうし、パソナの人たちもたくさん仕事があったろうに。
梅雨の終わりの長雨で、大きな被害がでてしまったことを、それはそれとして、といわんばかりに別次元でオリンピックが進んでいく。
国がオリンピックをしたがる、というのはただ名誉のためでなく、実利もあり、開催後の観光とか、経済的効果、インフラとかのオリンピック遺産が大きいのだと思う。
でも、何処か日本は、「オリンピック」というものに、そういう生々しい事情とは別に、57年前の、戦後復興を遂げ、敗戦国としてではなく、国際社会に再デビューした晴れがましく若々しい日本の姿を重ねているのではなかろうか?それはもはや伝説。歴史の彼方のファンタジーのように現実と解離して煌めく思い出、実は知る人も少なくなっている物語ではないか。
オリンピックでみんなが思い出すのは、もはや爽やかな日本晴れの青空に翩翻とひらめく日章旗、というより、愛ちゃんの卓球やら真央ちゃんやユズくんのフィギュアスケートや、チョー気持ち良かったり、なんも言えなかったりする水泳とかの選手個人の活躍やエピソードや自分だけの推し活で、オリンピックも数ある個人的な楽しみのひとつにすぎないのではないだろうか?
アスリートたちの努力、人間の限界への挑戦、その尊さを否定はしないけど、大きな運動会、大きな記録会、くらいの認識で、それにふさわしい規模で、それにふさわしい開催要件で、中止だってあり得る、くらいの感覚があってもいいのかも、とも思う。
子供の運動会も、学園祭も、修学旅行も、伝統ある地域のお祭りも、もっと大切な、通常の授業やクラブ活動もことごとく中止し、我慢をさせてきてるのだし、それは全て命を守るため、という目的なのだから、アスリートとオリンピックの役員だけは大会をしても命の別状無し、とは言えまい。ウィルスにはアスリートも普通の人もIOC貴族も隣のおばちゃんも区別無し、みんな人間に見えてるだけなのだから危険度も同じだろう。
それをあえて開催するならば、オリンピックは特別、ということを国民に納得してもらわねばなるまい。
こんなパンデミックのなかで普通はやらない、と、専門家が言うところをあえて開催する意義を、57年前の煌めきに頼ることなく、説明してほしい。
情報を開示し、政策のビジョンをのべ、苦難にあっては国民の気持ちを時に慰め、時に鼓舞し、押し付けや無理強いではなく、協力をすることがどんなに大切かを自分の言葉で語ることは、政府や政治家の基本的な責任であると思う。