8月6日のに寄せて、SNSを始め新聞やいろんなメディアに核と平和について、あの日の記憶についての記事が踊る。
その中に「隠された悪を注意深く拒むこと」という一文を見つける。
谷川俊太郎の詩の一節である。
生きる
谷川俊太郎 詩
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと
生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
隠された悪とはなんだろう。
親切な人の姿で近づいてくる嘘か?
あなたのためにしてあげてるのよ、という抗いがたい抑圧か?
平和のためには戦わなければならないというプロパガンダか?
安心安全ですよ、という原子力発電か?
果たして核の平和利用ってできるのか?
大きなニュースから目をそらすためのスキャンダルやゴシップか?
それに荷担するメディアの忖度か?
友達の幸せを聞いたのに、喜んであげられない小さな嫉妬か?
隣の人の悲しみにたい対する無関心か?
隠された悪を避け、心を解放し、隠れた光を見いだせますように。
8月9日長崎原爆忌。