もう半世紀前のことである。その頃、中学生だった私は、勉強の合間に22時から放送されていたドラマを何気なく見ていた。主役は当時若手俳優として人気のあった小倉一郎さんで、電車の中で痴漢をするシーンがあった。お尻を触られていたのは、まだ無名に近かった桃井かおりさんである。痴漢シーンに興味があったわけではない。その後の家庭内のストーリーに惹きつけられた。以後、そのドラマの放送時間になると勉強はそっちのけで、最終回まで見入ったものだ。今まで見たドラマとは一線を画する何かを感じていた。そのドラマとは、「木下惠介・人間の歌シリーズ」としてTBSで放送されていた「それぞれの秋」という作品である。脚本を書いたのは山田太一さんだが、当時の私は脚本家でドラマを見るという習慣はなく、ただただドラマの面白さに魅了されていた。

 脚本家の山田太一さんが、11月29日に89歳でお亡くなりになった。山田太一さんには個人的に思い入れが強く、このブログに何度も書いている。重複する内容もあるが、お許しをいただきたい。

 山田太一という脚本家の名前を意識したのは、「想い出づくり。」辺りからだろうか。何しろドラマのタイトルよりも先に「山田太一脚本」と画面に出るのだから。後で知ったことだが、「それぞれの秋」よりも前に見た、ポーラテレビ小説「パンとあこがれ」も、NHKの朝ドラ「藍より青く」も山田さんの作品だった。私はずっと山田ドラマを見ていたのだ。

 

 「岸辺のアルバム」「男たちの旅路シリーズ」は、日本のドラマ史に残る傑作である。しかし、私が最も影響を受けた山田作品は「ふぞろいの林檎たち」の1作目である。このドラマを最初に見た時の衝撃を今でも覚えている。落ちこぼれ大学生の日常、家族、友情、恋など、どうしてこんなに人の感情に入ってくるのだろうかと思った。それは、私自身も落ちこぼれ大学生だったからかもしれない。特に私が感情移入したのは、国広富之が演じた本田という人物だった。頑なに人との接触を避けていたが、主役の3人の大学生との関係の中で、徐々に変わっていくという人物造形が見事だった。視聴者一人ひとりにとって、人ごととは思えないような登場人物がドラマの中にいたのではないだろうか。

 「ふぞろいの林檎たち」の全ての放送回をビデオ録画した私は、各回を数年にわたって30回以上見た。シナリオ本も購入して読んだ。当時私は、このドラマの全てのセリフ、全てのカットを覚えていた。「ふぞろいの林檎たち」に心酔したと言っていい。

 「ふぞろいの林檎たち」を見て次に考えたのは、私も脚本を書いてみたいということだった。当時、「シナリオ」や「ドラマ」という雑誌を購入して読んでいた。その中に広告を掲載していた脚本家を養成する教室に通うことにした。同じ時期に脚本の勉強を始めた人は50人くらいいただろうか。最初の2か月は大きな部屋で脚本を書くための基礎知識を学んだ。その後は15人くらいのグループに分かれ、ゼミナール形式で毎週新作の脚本を書いて持ち寄った。自分の書いた脚本を他の人の前で読み上げて批評してもらうのだ。私は自分の書いたものに多少の自信があった。他の人や先生から褒められることが多かった。しかし、「ここはもっとこうした方がいい」と言われることもあり、なかなか上手くいかなかった。

 勉強が終わるのは21時くらいだった。それからみんなで近くのお店に行き、おしゃべりをするのが楽しかった。帰りの電車が一緒だった女性とお付き合いしたことも懐かしい記憶である。脚本の勉強を2年くらい続け、何度かコンクールにも応募したが、結局1円にもならなかった。当たり前のことだが、プロレベルの脚本というのは、そうそう素人に書けるものではない。しかし、この時の経験が、今でも映画やドラマを見続けるきっかけとなっている。

 70年代から80年代の前半がテレビドラマの全盛時代だったろう。向田邦子さんや倉本聰さんなどが競って作品を発表していた。この頃の作品群は、今でも傑作、名作と言われている。しかし、私の感情に一番フィットしていたのは、やはり山田太一さんのドラマだった。目標にするのは、この人しかいないと思っていた。

 時は少し遡り、1981年の秋のことである。9月からTBSで放送されていた「想い出づくり。」を見ていた私は困ってしまった。10月から倉本聰脚本の「北の国から」が放送されると知ったからである。どちらも見たい。しかし、当時は録画機器など持ち合わせていなかった。さあ、どうするか…。

(次週に続く)