夏休みも終盤である。この頃になると、夏休みの宿題をこなすのに一生懸命になっている子どもたちも多いのではないだろうか。ニュースによると、夏休みの宿題を全く出さない学校もあるとのこと。それはいいことのような気もするが、代わりに毎日学習塾に行くということにならないだろうか。学習塾が悪いというのではない。夏休みといっても学校に行かないだけで、勉強をしなくていいという訳ではないのだから。

 私が夏休みの宿題で一番に思い出すのは、「夏休みの友」という問題集である。いろんな教科の問題が一冊にまとめられていた。私は小学生の頃、その「夏休みの友」を2日くらい済ませていた。ほとんど復習問題であり、苦手だった算数も時間をかけないで終えることができた。その他の科目も難しくはなかった。当時、私の住んでいた片田舎に学習塾などない。「夏休みの友」をやり終えると、本当に勉強をしなかった。8月末まで、長い遊びの時間が待っていた。

 しかし、8月も半ばを過ぎると、ちょっとそわそわしてきた。夏休みの宿題として、工作、絵、読書感想文が残っていたからだ。工作は「夏休みの友」に載っている題材のものを作っていた。今でも覚えているのは「広告塔」である。街中にある羊羹のお店の上に立っている塔を覚えてきて、竹ひごを使って真似て作った。

 絵は毎年同じ題材を描いていた。実家の裏に牛を飼っているお宅があり、毎日決まった時間になると囲いの中に牛を放していた。その群れている20頭くらいの牛を描いた。毎年同じような構図で、同じような絵を描いていた気がするが、そんなことに気づく人は誰もいない。

 問題は読書感想文である。毎年、夏休みの宿題の中で最後まで残っていた。一番やりたくない宿題だった。当時から課題図書というのがあったのかどうか記憶にない。

 私は読書好きだったので、夏休みの間、何冊もの本を読んだ。6歳年上の兄の部屋には、世界文学全集やら偉人伝やら、多くの本があった。私はその本を拝借してきて、片っ端から読んでいた。推理小説にはまったのもその頃である。それなら、簡単に読書感想文を書けそうである。しかし、書けなかった。夏休みの宿題の読書感想文は、その後の「読書感想文コンクール」の審査対象になっていると知っていたからだ。この「読書感想文コンクール」というのが嫌だった。なぜ、子どもの感想文を審査し、賞を与えたりするのだろうかと思っていた。大人が審査する「読書感想文コンクール」なのだから、こういう風に書いたら受けるだろうと、子ども心に感じるものがあった。

 私は大人に受けそうな文章を考え、「読書感想文コンクール」で入賞するだろうと思えるものを提出するという不遜な子どもだった。そして、本当に毎年何らかの賞を貰っていた。先生やクラスメイトから「すごいね」と言われたりした。しかし、少しも嬉しくなかった。むしろ、胸の奥に小さな痛みがあった。嘘をついて、大人をだましたという気がしていた。

 時は移り、私は子どもを指導する立場になった。読書感想文の書き方を指導してほしいと上司から言われたこともある。そのため、その年の「読書感想文コンクール」の課題図書を全て読んだりした。多くの子どもたちは、自分の力で自分なりの感想文を書いていた。しかし、どう見ても親が手を入れているとしか思えないものも多々あった。その子の能力と比較して、文章が上手すぎるのだ。「読書感想文コンクール」では、その上手すぎるものが賞を取ることも多かった。親は嬉しかったかもしれないが、子どもの心はどうだったのだろう。

 ネットで読書感想文を検索すると、書き方のコツやらテンプレートやら、いっぱい出てくる。ここでこう書いたらいいですよと手ほどきまでしてくれる。また、今話題のChatGPTなどのAIでは、お願いすればそれなりの感想文を教えてくれるという。今後、「読書感想文コンクール」は、どんな基準で審査するのだろう。親が手を入れた感想文を見分けることができるのだろうか?同じ内容の感想文があると思ったら、どちらもAIに教えてもらって書いたものだったということはないのだろうか?

 私は課題図書というのが不要だと思っている。大人に読む本を指定される筋合いはない。また、学年によって読む本が違うというのも嫌いである。どの年齢の子どもが、どんな本を読んでもいい。大人向けの本とか、子ども向けの本とかいう発想自体がナンセンスである。大人でも子どもでも、読みたい本を自由に読めばいいだけのことだ。読んだ感想は、自分の胸の中に秘めておくだけでいい。子どもの時に読んだ本が、一生自分を支えてくれるということもあるのだから。

 夏休みの宿題に読書感想文が必要だろうか?大人たちは読書感想文を書くことによって読書好きを育て、読書習慣を育むと思っているのだろう。全く大違いである。読書感想文の強要こそ、読書嫌いを生む元凶だと私は思っている。