(先週からの続き)

 奈良県御所市の女の子のイニシャルはY.Yで、私はYちゃんと手紙に書いた。Yちゃんは私のことをTちゃんと書いていた。

 中学生になり、手紙の頻度は以前ほど頻繁ではなくなった。月に1通か2通程度だった。しかし、一人だけに出す手紙は気分的に楽であり、私は定期的に手紙を書くという行為自体を楽しんでいた。お互いの学校生活や、悩みなども手紙に書いたりした。

 Yちゃんから写真が届いた。友だちと二人で写ったものだったが、その美少女ぶりに驚いた。こんなにきれいな女の子と手紙をやり取りしているのかと思うと、胸のドキドキが止まらなかった。しばらくYちゃんの写真を学校に持って行くカバンの中に入れていたこともある。勿論私も写真を送った。Yちゃんは私の写真を見て、どう思っていたのだろう。

 高校生になっても文通は続いた。中学生まで鉛筆で書いていた手紙は、いつしか万年筆に変わっていた。更に以前と違うのは、やはり手紙を出す間隔が長くなってしまったことである。高校生になって勉強が忙しくなり、手紙を書く余裕がなくなっていた。というのは表向きの理由で、やはり少しマンネリ化していたのかもしれない。2~3カ月私が手紙を出さないことが何度かあった。するとYちゃんの方から手紙が届いた。それはやんわりとした優しい文章で、私に対する気遣いが感じられるものだった。ほとんど勉強もしていなくて十分時間があった私は、Yちゃんに申し訳ない思いで一杯だった。そんな時はいつも、かなり長文の返信を書いていた。

 Yちゃんは時々、手紙に自作の詩を書いていた。今でも覚えているのは、「時の流れが早すぎて、もうついて行けそうにない」という文から始まる詩である。それは高校生の女の子の、正直な気持ちが表現された詩だった。高校時代、私は文芸クラブに在籍していた。そして、下手くそな小説を書いてクラブの文集に掲載していた。お返しとして、その文集をYちゃんに送ったような気がするのだが、記憶が定かでない。

 高校生のこの頃、Yちゃんと約束をしたことがある。それは「お互いがおじいさんやおばあさんになっても文通を続けよう」ということだ。つまり、一生文通を続けようと誓っていた。本気でそう思っていた。

 大学生になり、私は京都で下宿生活をしていた。Yちゃんは大阪の短大に進み、自宅から通っていた。ここで今までにない変化が起こった。大学1年生の秋、私が通っていた大学の学園祭にYちゃんが友だちを連れて来るという。その時に私に会いたいということだった。小学六年生から文通をしていたが、実際に会うことになるとは思わなかった。どうしよう、会うべきか会わないでおくべきか、私は悩んだ。私は手紙に「今までの文通で築いてきた関係が壊れてしまうような気がする」という意味のことを書いて送った。Yちゃんからは「会うことによって、新しい何かが始まるかもしれない」という返事が来た。「新しい何か」とは恋愛かもしれない。それは自分でも望んでいたことのような気がした。それはそうだろう、こんなに長く手紙のやり取りをしているのだから、お互いのことを一番知っている異性は、Yちゃんにとっては私であり、私にとってはYちゃんなのだから。

 初めて電話で話をしたのもこの頃である。お互いの電話番号を教え合っていたのだから、電話がかかってきてもおかしくない。下宿のおばさんが取り次いでくれた電話に出るとYちゃんだった。やはり学園祭で会いたいとのことだった。私は一瞬考え、「その日はアルバイトが入ったので…」と言った。勿論、嘘である。気持ちの整理ができなかった私は、Yちゃんの「会いたい」という気持ちから逃げたのだ。Yちゃんは私に会えなくても学園祭に来るという。Yちゃんを裏切ったようで、申し訳ない気持ちで一杯だった。

 学園祭当日、Yちゃんとその友だちに会って相手をしてくれたのは、下宿の隣の部屋に住む2年年上の先輩とその仲間である。二人はYちゃん達を連れて大学の中を案内してくれた。そして、お返しとしてYちゃんの通う短大の学園祭を見に行く約束をしたとのことだった。実際に数日後、大阪のYちゃんの短大まで行ったと先輩に聞いた。先輩にとっては、ちょっとした合コン気分だったのだろう。

 これが、Yちゃんと会う唯一の機会だった。それ以後「会おう」という話にはならなかった。よって「新しい何か」は始まらなかった。今にして思えば、Yちゃんが一人で学園祭に来たら会っていたような気がする。あの時会っていたら「新しい何か」が始まり、人生が変わっていたのだろうか?

 そして文通は、それからも続いた。

                                 (次週へ続く)