スマホの発達で、手紙をやり取りしている人がどれくらいいるのだろうかと思う。ちょっとしたやり取りならLINEで十分だろう。いちいちペンをとって便箋に文字を書くという行為は、いかにもアナログである。私も今年になって手紙を出したのは一度きりである。しかも、自筆ではなくパソコンで入力してプリントアウトしたものを封筒に入れただけだ。「手紙を書かなくなったなぁ…」と我ながら驚いている。なぜなら、かつて私は手紙を書く少年だったからだ。

 きっかけは、当時小学館が発行していた「小学六年生」という雑誌だった。その頃はどの雑誌にも文通欄があり、文通を希望する人のコメントが記載されていた。「女の子のみ」とか、「読書好きの人」とかいった具合である。個人情報に厳しい現代からすれば信じられないかもしれないが、当時は雑誌に個人の住所や名前が堂々と載っていた。

 ある日、私のところへ知らない人から手紙が届くようになった。しかも、毎日5通とか10通である。一体何が起きたのかと思った。「小学六年生」の文通希望欄に私の住所と名前が載っていると知ったのは数日後である。文通希望の葉書を小学館に送っていたことなどすっかり忘れていた。雑誌を開いて見ると、私は「どなたでもけっこうです」と書いていた。それもすっかり忘れていた。

 多い日は40通から50通くらいも手紙が届いたことがある。郵便屋さんが「まだ配達が残っていると思っていたが、ここ(私の家)に来ればすっかり(配達する手紙が)なくなる」と言っていたことを思い出す。驚いたのは私だけでなく家族である。祖母などは「お前は罪深いことをした」と言っていた。「小学六年生」は月刊誌だが、私の名前が載った号が発売されて2~3カ月は手紙が届いていた。やっと手紙が来なくなり、全ての通数を数えてみると800通を超えていた。

 私は当時、その手紙を全て読んだ。手紙を出せば必ず文通が始まると思っている人も多く、いきなり自分の写真を同封する人もいた。また、返信をしないと、どうして返事をくれないのかと催促の手紙が来ることもあった。

 小学六年生の少年だった私は、その膨大な手紙を見て大いに困惑した。誰に返事を書けばいいのだろう。手紙をくれた全員に返事を書かなければならないのだろうかと。

 とりあえず、返事を書く人を絞ることにした。そして、山形県山形市の人、大阪府寝屋川市の人、奈良県御所市の人に手紙を書いた。返事を出した相手はすべて女性である。それはやはり、せっかく手紙を書くのだから異性の方がいいだろうという気持ちだったのは間違いない。800通の中からどうしてこの3人だったのか。それはもうカンのようなものだったとしか言いようがない。

 最初の手紙には自己紹介のようなことを書いたのではないかと思う。そして、山形の人からも、寝屋川の人からも、奈良の人からも返信が届き、いよいよ3人との文通が始まった。

 山形と寝屋川の人からは間もなく写真が送られてきた。今でもはっきりと覚えているが、山形の人はお姉さんと二人で写っていて、とても大人っぽく見えた。寝屋川の人はクラスの集合写真だった。着ている服からして、いかにも都会の女の子という感じだった。田舎の小学生だった私には、とても眩しく感じられた。私もスナップ写真を送ったりした。

 しばらく3人の女の子との文通を楽しんだ。毎週のように手紙を書いていた。そして、3人からは次々と手紙が届いた。女の子らしい便箋や封筒にドキドキしていた。

 しかし、手紙を書くという行為はかなりのエネルギーを要する。そのうちに手紙を書くのが億劫になってきた。3人を相手に手紙を書き続けるのだから、今考えても無理があったのだろう。文通を開始して1年も経たないうちに、山形と寝屋川の人とは自然消滅のような形で手紙が途切れてしまった。

 そして、奈良県御所市の人とだけ文通が続いた。それは驚くほど長く続くことになる。

                                 (次週へ続く)