お父さんが残してくれたもの
2013年10月19日(土)のお昼過ぎ、姉からラインでビデオ通話がかかってきて、「お父さんがパッて目が開いたから話したって!」と。
もう既に意識が遠のいていたとは知らず、「明後日には帰るから、待っといてや~!」と呑気に声をかけた。
その日は自分のバンドの銀座での初ライブ。
数日前に姉から連絡が有り、この一週間もたないかも、と言われたが、この日のライブだけは休む事が出来ないと、演奏する事を優先させた。
そのビデオ通話から約1時間で、お父さんは息を引き取った。
名古屋から向かっていたもう一人の姉も間に合わなかった。
その連絡を病院にいる姉からメールで貰い、呆然とした。
…何もこんな日に死なんでもええのに…
どこまでタイミングが悪いのかと、イラっとした。
その後もライブの入り時間に間に合う様に準備を進め、メンバーとやり取りをし、リハーサル、本番と何事も無かったかの様に演奏をこなした。
こなしたと言うより、無我夢中で演奏した。
途中から、お父さんに聴いて貰ってると確信して演奏していた。
前日までの疲労で全く声を出せなかったボーカルのあゆこが、凄くイイ歌を歌ってくれた。
一生懸命に太鼓も叩き、ステージを盛り上げてくれた。
僕にとって、生涯忘れられないライブになった。
それは、感謝の想いがいっぱい溢れたライブだった。
次の日の朝一で実家に帰って、仏壇の前で寝ているお父さんに会った。
うっすら目を開けて、気持ち良さそうに寝ていた。
お母さんも姉二人も、全然悲しそうじゃなく、来てくれたお客さんや、葬儀屋さんの人達の方が悲しんでいた。
家族には、まだ全然実感が湧いてきてない感じだった。
葬儀屋さんが来る前に、家族全員が揃って、最後の勤行をした。
全員が揃うなんて、おばあちゃんの法事依頼だから、10年以上前の事だろうか。
とにかく久しぶりで、その事が逆に嬉しかった。
お父さんのおかげで、少し遠ざかっていた名古屋の姉が帰ってきて、お母さんに優しくしてくれた。
その後ご飯を食べて、葬儀屋さんが来てくれ、お父さんを運ぶ車に乗せた。
この時に初めて涙が出た。
お父さんの肉体は、もうこの家に帰って来ないんだなと思った。
一生懸命に働いて、周りの人にたくさん声をかけて、福運をいっぱい積んで、真面目に真剣に生きてきた結晶の城。
お父さんが大好きなモノに囲まれていつもニコニコしていたお家。
お母さんには、厳しく当たる事が多かったけど、お父さんなりに優しく大事にしていたんだと思う。
誰が来ても恥ずかしく無い様に、仏間と居間だけはキレイにしていた。
そんなお父さんが築いたお城に、もう帰ってこれないんだなと思うと、かわいそうになった。
「ここで、これからは僕がお母さんを守り、お父さんみたいニコニコみんなに声をかけていくからね。」
って、お父さんと約束した。
通夜、葬儀には本当にたくさんの方が来てくれた。
合わせて850人くらい。
ここでも、家族以上に来てくれた方々が悲しんで、泣いてくれていた。
「滝さんには、本当にお世話になったんです」
と口々に言葉をかけて頂き、お父さんに感謝の言葉を残してくれた。
僕は高校から寮生活で離れて暮らしていたので、余りお父さんの人間関係は知らなかったが、僕がライブで帰って来る時に連れて来てくれる方々以外にも、本当にたくさんの方々と縁を結び、関わってきてたんだなと、つくづく思った。
こんな父親を持って幸せだなと、つくづく思った。
10月に入って、お医者さんが家族に会わせた方がいいと言ってた時、まさかこんなに早く逝くとは思わなかったから、「12月から帰って来るから、一緒に頑張ろうな」とお父さんに言った。
もしかしたら、僕がそんな事を言ったから、安心して早く逝ったのかもしれないと最近思う。
お父さんは闘病が長くなるとお母さんに迷惑をかけるのが、嫌だったと思う。
でも自分が死んで、お母さんが一人になるのは心配だっただろう。
そこに僕が帰ってくると聞いた途端、後は息子に任せて、サッサと次の生に生まれ変わりたかったんじゃないか。
そう思ったんじゃないか?と感じる事が有る。
もしそうだとしたら、僕はお父さんにも親孝行出来たんじゃないかと思う。
10月の始めに、今親孝行しないと後で後悔すると思い、神戸に帰る事を決めた。
その事自体が既にお父さんに対する親孝行になっていたとすると、決めて良かったなと思う。
後は本当にお母さんを大事にしてあげよう!
僕と一緒にお母さんを大事にしてくれる人がいたら、家族を持とう!
お父さんが残してくれたこの家で、みんなでニコニコ暮らしていこう!
こういう気持ちになれた事が、本当に大切な「お父さんが残してくれたもの」なんだと思う。
お父さん、ありがとう!!
2013.11.14(木)
息子 幸一郎