『セル』(小説)と『セル』(映画) | 時代劇 実験室

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以前にもチラリと書いたが、映画と小説を並行して楽しむのが、このごろの流行だ。

 

スティーヴン・キング作『セル』…2006年

映画版の『セル』もキング自身の脚本…2016年

 

ある日突然、携帯から怪電波が流れる。携帯を使っていた人々は、その瞬間から《携帯ゾンビ》になってしまう。理性は吹き飛び、暴力的になり、殺し合い、自分が怪我を負っても攻撃をやめない。

 

本文では、《携帯ゾンビ》という言葉は使われておらず、ただ、「解説」にそうした表現があっただけのように思うが、この言葉はちょっと寓意的だ。

 

2006年と言えば、携帯の普及率ってどんなものだったろう? 英明な作家、キングは、当初から携帯を好まなかったらしく、(確か)いまに至るも、携帯は使っていないのだそう。かたや、我々は、すっかり携帯に支配されてしまい、携帯なしで暮らしていた頃のことが、もう何も思い出せない。

 

以下、ややネタばれ気味になるが……2006年の小説は、まだ結末に「救い」があった。が、10年経って、映画になったとき、同じキングの筆は、「絶望」の方に舵取りをしていたように思う。もう我々は、引き返せないところまで、携帯に毒されてしまったという意図が、あったのかも知れない。

 

両方、読み・観て、思ったのが、キングの作品は、基本的には、非常に《小説的》であるということだ。日本の浅田次郎のように、キング作品はとにかく映像化されている印象だが、本質は、映像向きではないと思う。それは、この『セル』や、『呪われた町』(映像では『死霊伝説』)で、顕著に感じられた。

 

人物の生い立ち・生活・置かれた立場……キングは、それらを丁寧に書き込む。だから、ゾンビや吸血鬼が、町を支配しようかという極限状態に陥ったとき、ある登場人物が、どうしてそうした行動をとるのか―逃げるのか、戦うのか、沈黙するのか、裏切るのか等―が、解り過ぎるくらい解り、行動ひとつひとつにリアリティが見出せる。

 

だから、これが、2時間前後の映画になってしまうと、どうしても「薄く」感じられてしまうのだ。いや、小説から映画化されたものは、だいたいそうした傾向であろうが、

 

『セル』も、上下巻でなくても、もしかしたら、良いような内容にも思われるが、キングは、それだけの分量をほぼ人物描写に割くことによって、誠実に―物語のリアリティが損なわれないことに努めるタイプの作家だと思う。キングの作品・作風は、微妙なところまで書き込める小説(文字作品)向きなのだ。

 

このまえ、紹介した、ロマン・ポランスキー監督、市川崑監督などは、映画向き作家。例えば、池波正太郎は、もとが舞台の脚本家だから、小説そのものが、脚本みたいに簡潔な表現が多く、したがって、映像にしても文字作品のままでも、ほとんど印象が変わらないタイプだと見ている。

 

『セル』において、日本でいうところの《義》(ひとまず「誰かのために命を懸ける行為」としておく。)というのを、客観的に見せられたように思う。そして、欧米人からすると、《義》というのは、《狂気》と変わらないように見えるのかもな……と、思った。特に映画の方で。

 

ある人物が、自爆をすることで《携帯ゾンビ》と闘う方法を、主人公に示すのだが、小説は、丁寧に書き込める分、キングは、その行為を《義侠心》から出たものと表現することが出来ていた。が、映画にしたとたん、その自爆は、発狂によるものと、貶められていた。いや、やっぱり時間の都合だろう。

 

自分の何の利益にもならないように見える《死》を、短時間で、ある程度、説得力のあるように見せるためには、発狂したとするのが、もっとも手っ取り早い。キングも、自分の小説作法の特性がわかっていて、どうして脚本なんてものに手を出したのだろうか?

 

小説は良い。だが、映画は(見比べなければ「薄い」と思わず済むかも知れないが―)登場人物の誰にも感情移入が出来ない。そう思っているのに……いま私は、キングの『ミザリー』を読みつつ、傍らにDVD『ミザリー』を、すでに準備している。