■「遠大な憧れ」への憧れ | 時代劇 実験室

時代劇 実験室

「時代劇らしい時代劇」且つ「新しい時代劇」を模索・創作するための研究所

 もし歴史小説作家になりたいなら、大きな気持ちで書け…と、以前、父に云われたことがある。その頃自分は、タイトルに「新説」とか「異説」、あるいは「異本」「私本」などとよく付けていた。吉川英治の『私本太平記』とか『新平家物語』とか『新説忠臣蔵』とかあるじゃないか…などと反撥もしたが、ようやくこの頃になって、父の云うことが腑に落ちるようになってきた。
 吉川英治ほど、見識も実力もある大作家ならその「私(わたくし)」や「新」しさにも一読の価値はあろうというもの。が、駆け出しの自分が「私」などと云うのは、結局「公」と向かい合えない「逃げ」か、奇をてらった行動でしかなかったのだ。「俺が書くのが本物だ! 誰が何と云おうと、俺が調べ、この歴史上の人物を信じられる『人間』としてつむぎ出したのだ」…そう胸を張れる作品を創ろうという覚悟は、「異本」などとタイトルに付けている段階では、決して生まれて来ない。
 本日…二〇〇九年二月二二日。井上靖の『敦煌』を読み切った勢い、「元寇」を朝鮮(高麗)の視点から描く『風濤』を読み始める。
 本当なら、いまの僕には井上さんの作品は、ちょっと合わない。『敦煌』を読み始めた頃に思ったのは、「生活感がない」ということと、『本覚坊異聞』『風林火山』『おろしや国酔夢譚』同様、小説にしては主人公の感情の「削ぎ落とし」が目立つなということだった。井上さんは、本当に余計なことを書かない。…いつも扱う題材は、並なら一冊収まるようなものではない。それが、大黒屋光太夫も、山本勘助も、そして今回の趙行徳も、坦々とした文章のなかに生き、わずかな冊数に収まっている。ものづくりに少しでも携わったことがある人なら、端的に短い文章で書くことがいかに難しいか、実感があると思う。井上さんは膨大な資料を読んでいる割に、いつもそのストイックな道を歩まれる。…尊敬はするが、僕は最近ドストエフスキーに傾倒し、しつこいくらい人間の感情を抉る作風を好むようになっていたため、本の半分くらいまでは坦々とした文章に馴染まなかった。
 小説を読んでいる最中、敦煌での文献発見がいかに大発見であったか…東洋史上貴重なものであったかを述べた資料を併せて読んだ。と、不思議な気分になった。その貴重な文献にアプローチし、後世に残すのは、趙行徳なのだが、彼はあくまで創作のなかの人物である。井上さんは、誰が敦煌にそれを残したか解らない…でもそれをなんらかの理由によって確かに決然やった人がいたはずだと思い、小説のなかの人物にそれを成させた。歴史の空白部分に「使命を負った人間」を見事に配置されたのである。
 資料を読み合わせたせいで、行徳が次第に「宝物」へ近付いていく様子が面白くて仕様がなくなった。どうやってこの遺産は残されるのか? …これは壮大な志を持った作者の「歴史書」ではなく「エンターテインメント」であることに気が付かされた。
 面白くなってくると、今度は現金なもので、削られた行間がありがたくなってくる。余分な説明は不要で、自分で勝手に登場人物の気持ちや生活を汲んでいる。『風濤』も三十頁ぐらいからノッてきた。フビライが出てきた時点で、元寇を思い浮かべて良さそうなものだが、不覚にも高麗国の太子が主人公になっていたため、日本史のことが即座に出て来なかった。フビライは、高麗に対する詔で云う…「(日本への外征を)風濤険阻ヲ以テ辞ト為スナカレ。未ダ嘗テ通好セザルヲ以テ解ト為スナカレ」
 大国・元と風濤(日本までの海)に囲まれ、主人公はどう生きるのか。先が楽しみであると同時に、今回も小さな「私」「異」のなかに決して収まらない、鳥よりもずっと高いところから歴史を見ようという遠大な視点を持った井上さんに憧れを抱きそうである。…志は常に大きく、だ。