姿勢制御セラピーの萩原です

哲学的思惟を繰り返し、見えてくる光と影は、人の心を解放するのか窮屈にするのか、分からないほどの内部運動を起こします。
そもそも、哲学的思惟がどのようなことなのか?
日本語は字体に漢字を使うと、とても難しさが生まれ、私たちが困難だと思っている弱さが生まれます。
鳥肌を立たせるような自分はダメな人間だと追い詰めたあの日のあの時間。
漢字の字体は、そんな学生時代の思春期に抱えた、自分と他者との間の溝に向き合って流せなかったあの涙まで、巻き込むように、困難さを増すのです。
哲学的思惟を続けることで見えてくる景色とは?
その景色は、一人一人違うため、共通言語を今、失っていて、どうすることもできない悩みにぶつかっています。
その景色を見たとき、どう感じるのか?
自然に美しく広がる山とその麓からこれは永遠を意味するのではないのかと思うぐらいに見える澄んだ湖は、誰が見ても、いやこれ以上は生きれないと行き詰まって、死んだ方がマシだと思っていても、多少は希望が持てる自然の美しさとは、また違う景色。
それが、哲学的思惟を繰り返す(反復)すると見えてくるある景色。
旅行のガイドブックを見て、美しい山を見に行く計画は、誰かと一緒にそれができる、それが可能となる。
しかし、哲学的思惟を繰り返すことで見える景色は、最初から誰かと一緒に見られないことが分かっています。
そのような景色を誰が見たいと思うのか?
私たちの中にある、確信と不信の間、そこに確かあっただろうと思う景色は、今は見当たらない。どこにいったのだろうか?
哲学的思惟を繰り返すと、見えてくる景色が、その思惟の重ねられた断層を経験するにつれて、見えてきます。
そういうことだったのか?
まだそこまで明瞭に言えるぐらいの境域ではなく、夜明け前のかすかに空が明けそうな、天と地が入れ替わる精霊感を感じます。
哲学的思惟をひたすら繰り返し、言葉が並んだ文体を成り立たせたら、そのままその文体を眺め、そこに対して、反対側から立つ想像性を駆使し、みずから生み出した文体を否定します。
もしそのような人(他者)がいたら、どれだけ安楽に自分の思惟を壊せるのかは、計り知れないものがありますが、そのような人がいないことも、孤独や絶望感を説くための契機(きっかけ)となるのです。
だから、それはそれで良いとしようと思える。
哲学的思惟とは、まじめで、勤勉、品行方正なキャッチフレーズが命名されそうですが、決してそうではなく、むしろその逆からの運動が行なわれています。
哲学的思惟とは、不真面目、怠慢、無理非道(むりひどう 品行方正の対義語)から始まっていく、私たちの内部の潜在力をめいいっぱい使った内部運動なのです。
あなたがイスに座っています。
その間にテーブルが置かれ、その向こうにこちら向きのイスにあなたが座っています。
これは想像上のことになりますが、向こうにこちら向きのイスに座っています。
これは、哲学的思惟に限らず、この地球上にいると自然に発生する引力を軸にした二項対立と言われ、この二項対立を超えると、一気に軸の動きはあまくなります。
すると、地球は止まっている感じが予測され、心はどちらにも動けない状態になる鬱状態になっていきます。
まず手前のイスに座るあなたが思ったことを一つの文体にします。
その後、向こうのイスに座ったあなたは、まったく反対側から見たものとして、文体にまとめます。
とてもやり慣れないことで、この作業だけで一苦労となり、私たちは日常的に二項対立で物事を見ていないことに、唖然とし、そこで混乱してしまいます。
でも、この内部運動はそうなるだろうと分かった上での覚悟をもって取り組んでいきます。
二項対立がない考えで生きていた私たち。
二項対立がなければ、考えは何事においても定義づけることがないため、思いや考えはどのようになるのか?
二項対立がなければ、対立のない正しいと思う方向を、一方通行によって、その物事を見て、対立がないので、一つの回付だと思ってしまって、私たちは全体がその一つだと決めつけていきます。
哲学的思惟を繰り返すのは、二項対立によって全体が見えなくなり、周りを照らしていた明かりが消え、薄暗くて、何があるのか 分からないところに立っている感覚です。
全体がなくなれば、次に出会うのは、霧がかった薄明かりが少しある蜃気楼。
たいていの人は、ここに来たら、最初の地点に還帰したくなって、哲学的思惟をやめてしまいます。
私たちに哲学的思惟は備わっていないのか?
哲学的思惟は何のためにあるのか?
スタジアムは、対戦相手のチームの応援する人ばかり。
そのような中で、どうやって闘えるのか?
対戦相手がいるんだから、闘うのはとても簡単で、自分が生み出した文体が負けるような、文体を作り上げたらいい。
そうすれば、必ず見えること。
それは、物事の深いところの意味。
これを私たちは求めたくなるのは、意味を見つけ出し、意味を損失させること。
意味をつけなければ、何も見えていません。
意味をつけることに焦点を合わせると、こちらに向かって手招きしている。
それは、一つ一つ意味を持ち、その都度まとめなければならないってことを。
追いかけても 手を伸ばしても 手に入らない境域
大切なあなたでさえ そこには入れないの
一緒に見たかったのに 赦してほしい
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