姿勢制御セラピーの萩原です

日本に住んでいると、都会も田舎も同じような平凡な生活を送ることができます。
世界中、他の国には今だに、貧困層が住むスラム街があり、旅行者にはその地域に近づいてはいけないと、警告されます。
日本は、ほぼスラム街はなく、都心にある貧困層が住む街も、年々整備されいつしかどの街も同じ風景を作り出しています。
そこには、「死」に対する恐怖心と民族性と宗教が深く関わっているということが分かってきました。
遺伝子は、生と死の設定がこの世に誕生した時点でプログラムされています。
遺伝子といえば、現代人である私たちは、科学性が生活に浸透されているので、何となくそうなんだろうと思えますが、「生と死」について、科学的に言うほど、淡白となり、人間の本質から遠ざけてしまいます。
「死」の恐怖は、生を否定するチカラを生む。
「生」を望むには、「死」を否定するチカラを生む。
生と死は、すでに対立する作用を持っています。
生は死を否定しなければ続きませんし、死は生を壊さないと迎えられません。
私たちは、文明が発達したので、リアルに「生と死」を感じる機会はほぼなくなりました。
病気で倒れると、救急車を呼びそれまで通っていた診察券がある病院に運ばれていき、何らかの処置が為されるでしょう。
交通事故に遭い、即死だったとしても、そのまま放置され見つからない状態は、都会でも田舎でもあり得ず、通行人が倒れている人に気づき、人によって恐怖の閾値は違うため、対応に個性出ますが、警察か救急に連絡し、運ばれていく流れとなっていきます。
日本にいると「生と死」に遭遇する機会はなく、私たちの遺伝子に「生と死」の設定すら見えなくなってきた。
「死」について考える経験は、余程命を脅かすぐらいの恐怖体験がなければ、現代においてほとんど不可能に近い環境となっていますが、人間を深く知るには、ありのままの命の構造について感心を持たなければ、中途半端な文明人という人間が好奇心を持つ対象者にも該当しなくなってしまうのです。
旧石器時代に生きたネアンデルタール人は、石器で道具を作る人類だと歴史が証明しています。
さらに、10万年前に生きた人類は、人間が死んだ後に残る頭蓋骨に感心と恐怖を持っていたようです。
「生と死」という知識が何もない時代は、人が死んでいく姿を見ることは、「生を脅かす恐怖」がダイレクトに残された人間に叩きつけられた時代でした。
ネアンデルタール人は、亡くなった人を「埋葬」するという文化が始まっていました。
その行為は、それまでは命があるので、話したり、道具を使ったり、眠ったり、動きが現実的に現れている現象で、生きていることを感覚的に分かってたのです。
生きてる人が自然に動き、コミュニケーション取れていたのに、亡くなると、「何も動かない精神活動のない物体で無以下の存在」となり、自分たちの生が犯されそうになり、衝動的に土に埋め、自分たちは生に対して向き合いながら生きてきたと思われます。
「生」は存在があるため、存在を感じず生きている状態。
「死」は「生」がなくなり、動かない物体という「存在」と「生を超えた無」が急に訪れた状態。
私たちは、生きている実感は、あるようでないぐらいの感覚です。
脳の構造で説明しますと、生命の源は、一番脊髄に近い部位で言うと一番下にある脳幹と呼ばれる細胞の核ばかりが集まる部分に神経とホルモンのスイッチがあり、この部位が生命の源泉となります。
脳幹は100%無意識に作動する細胞の集まりで、核の集まりの構造は、1000万ぐらいの神経が収束できるかなり電圧の高い部位です。
私たちの生活でいうと、電力に例えられ、原子力発電、火力発電が人間でいうと、脳幹の核となり、その源がストップすると、各地域に電力は流れなくなり、生活は混乱します。
脳幹は全身に流す神経とホルモンの電圧のスイッチとなるため、強く頭を打つと、外からの衝撃が強ければ、生命の危機を察知し、意識を失わせるか、細胞が壊れるぐらいの衝撃なら、即死となり生命は絶たれてしまいます。
私たちは、生活の中から出来るだけ「死」の恐怖を見えないようにしたいという欲求があり、それが文明の発展となりました。
知人が病気で入院し、お見舞いに行くと、病院独特の薬物の匂い、患者の体液や汚物などの異臭が館内を漂わせていますが、あの病院独特の匂いは、まさに「死」を想定させる遺伝子が本能的に持つ「死」の設定が作動するため、人は気持ちが重くなり、早く外に出たくなります。
たまたま病院という環境に自分の身を置いたことで、「死の恐さ」にスイッチが入り気づいたのは、根底にある「死」を私たちは持っているからです。
内面的に「生と死」は常に対立するエネルギーの交流だと言えるでしょう。
その感覚に気づかないような環境に世の中が発展したから見えなくなっているだけで、私たちがすでに持つのなら、向き合ってみる価値はあると思われます。
対立する力の方向性は、全く逆の動きをし、思想で言うと、「矛盾」という意味となり、真剣に考えると、初めはパニックを起こすぐらい、人の心を迷わせてしまいます。
「生」は親が生殖行為によって生まれるという行動と、「死」は生殖を否定する現象がぶつかり合います。
人は「死の恐怖」を抱えるのに、また「生殖により生を作る行動」をし、対立した行動が世の中の根底に存在する。
このような設定が一人の人間の中に詰まっているという深い洞察が、私はとても興味深く、心が興奮作用を起こします。
何も感じなければ、何となく過ぎていくこの平凡な時代ですが、さまざまな人間に対して環境という枠組みを作ると、さまざまな現象がぶつかり合っていることが分かるのです。
もし、不死身な人間がこの世に存在するなら、おそらく、何一つ噛み合わず、異次元な世界だと解釈し、その人間から避けていくだろうと思います。
遺伝子に「生と死」設定がなければ、生きている次元が違うため、神経系がキャッチする生命という「点」を感じ取れなくなり、理解できなくなります。
「生と死」は「生殖行為を超えた精神的な性行為を作るベースとなる。」
エロティシズムを世界で初めて発したジョルジュ・バタイユは、動物は生殖行為で終わるが、人間は生殖行為を超えたエロティシズムを持つ性行為をする生き物だと言っています。
エロティシズムが、生きることを最も分かりやすく、恐怖心が呼び起こさずに、向き合える部分だと私は思っています。
「生」は「死」を否定しなければ生きていけません。
その設定が遺伝子にある限り、人はいつもその矛盾を抱えて生きているのです。
「生殖」と「死」も対立することになり、人間は「生殖」と「性行為」を今では、分離して考えられる文化まで発展してきました。
エロティシズムは、性行為を指し、その行為の中には「生」に対立する破壊的な要素が含まれています。
性行為は、男性が射精をする時点で終わりが来ます。
女性は構造的に男性から刺激され、それを受け止める構えとなり、女性はただただ男性に攻められるだけの時間となります。
この男女の交わりは、「女性は自分を抑え攻められる」または「性交はただ男性から攻められる」という特徴は、遺伝子に設定された「破壊的」な状態と同じ感覚になっています。
男性は、女性を破壊する感覚で、同じ部位に繰り返し「突き刺す」という物理的な圧力は、男性にとって「女性を破壊する心理」となり、しかも射精という「終わり」が来るという時間感覚は、まさに「生が終わり、死を迎えて存在を確認した後の無の状態」に繋がっているようです。
普段は男女の違いは、洋服を身に覆っていますので、ハッキリと男女というのは、肉体的な目印はありません。
いわゆる、人間という枠組みに近い状態ですが、心理的には、女性は男性の目を感じファッションを女性らしくして振る舞っています。
それが、エロティシズムの時間には、男女の肉体が現実化し、それを視覚と嗅覚、聴覚、触覚がすべてお互いの肉体に集中するのです。
男女の肉体が分かる空間は、生殖が出来る時間にもなるし、新しい「生」を生まないエロティシズムを軸にした性行為をすることも出来ます。
エロティシズムが熱くなればなるほど、女性は絶頂を迎え、体の奥から意識が消え、自分が自分でなくなる感覚が肉体に現れます。それが遺伝子に設定された、「生と死」「破壊」「攻撃」「存在を知った後の無の状態」が含まれているなんて、なかなか文明が成熟した日本には、皆無になりつつあるのではと、私は推測しています。
人間を知ると、人間の構造が分かり、人間力になる。
人間を知るには、根底にある「生と死」「エロティシズム」の関係性を避けて通ると、本物の人間にはなれない。
男女が社会的に平等になってきましたが、男女の肉体は構造的には、エロティシズムにおいては、「男性は女性に攻める」「女性は男性から体内に攻められる」という関係性です。
日本は、先進国の中でセックスレスは、ワーストです。
エロティシズムが日本から消えてきているのです。
子供を産むという行為が、社会性から行なうようになっているのです。
男女が求め合うのではなく、子供を産む適齢期だから「生殖行為としてセックスをする」のは、バタイユの言葉を借りるなら、動物と同じ次元なのです。
男女の社会性は政治的に問題視されましたが、それはますますエロティシズムから遠ざける取り組みとなり、その結果、遺伝子に持つ「生と死」からも引き離してしまったのです。
何事もそうですが、地球は三次元で構成されているため、一部の目線だけで見ていくと、必ずバランスを崩し、本質から離れていき、なかなか原点に戻れなくなります。
女性がエロティシズムに対して拒否的になるのは、その根底に「生と死」があるからです。
「生殖」も「男女の肉体的関係」は、究極に向き合える時間を与えますが、その分向き合いたくない恐さも生むのです。
しかし、その対立が人間の本質であり、それが人生であり、それが遺伝子に設定されたありのままの人間なのです。
日本は、セックスレスになり、平凡が行き渡り、昔ほど凶悪犯も減りました。
マスコミは、わざわざ昔の神戸殺傷児童の事件を取り上げるぐらいです。
犯罪は許されてはいけませんが、その背景にあるのは、エロティシズムの低下が、私たちの欲求を失わせているのです。
男女共、自分の根底にある肉体や、誰にも言えない感覚を見つめ直してみてください。
あらゆるところに、「生と死」が存在しています。
怖くて向き合いたくないかもしれませんが、人間力に繋がり、生きることに覚悟が生まれますので、あなたができる範囲で、自分を見つめ、人間について学んでみてください。
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姿勢制御セラピーは、90分から120分かけて、触覚刺激から筋肉のアライメント(整列)を修正し、適切な重心を感覚神経に学習させ、体幹のトーンを活性化します。
足の裏が分かり、静脈の流れが促進されて、疲労回復と代謝システムの活性化を同時に作っていきます。
その結果、姿勢が適切になり、日常動作が効率良く動けて、楽な体と心を作ります。
触覚刺激は、自律神経に刺激を入れて、オキシトシンホルモンを作り出し、脳のストレスを低下させ、安らぎを作り、病気予防、老化予防、美しさを作ります。
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未来が見えず、現実社会に適応できないと感じる人は、触覚刺激を入れながら一緒に向き合う時間を作ります。インプットされた状態でアウトプットするセラピー。
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