「稲村ジェーンをめぐって」の続き

 

武蔵が玄関のドアを開けると、おかえりと声がした。

ひろ子はソファにすわり長い足を組んでいた。
シャワーから出たばかりのようで首にタオルをかけ、ウェーブのかかった長い髪はまだ濡れていた。
スピーカーから「If I Ever Hear You Knockin’ on My Door」が流れていた。
 
これ、借りたわよ。
武蔵のTシャツTシャツを着ていた。2002年のロック・イン・ジャパンのやつだ。
 
武蔵「いつ起きたの?」
 
ひろ子「ついさっき。どこ行ってたのよ?」
 
武蔵「朝食を食べにね」
 
ひろ子「一人で行くなんてつれないじゃない」
 
武蔵「よく寝てたから起こしたくなくて。ちゃんとおみやげ買ってきたよ」
 
武蔵は茶色の紙袋をテーブルにおいた。ゴトー商店でテイクアウトしたツナサンドウィッチが入っていた。
 
ひろ子はさっそくかぶりついた。
 
ひろ子「何これ、おいしいじゃない」
 
ツナとマカロニをたっぷりはさんだアメリカンサイズをあっという間に完食した。
 
ひろ子「ねえ、あなた昨日の夜、私に何か言おうとした?」
 
武蔵はひろ子にプロポーズ指輪をするところだった。
結婚しよう、と言おうとしたとき酔っていたひろ子は武蔵をさえぎり大量のゲロを吐き出したのだった。
 
今ここでプロポーズを繰り返す気にはなれなかった。そんな気分でも雰囲気でもない。
 
武蔵「覚えてないな」
 
ひろ子「夢だったのかしら」
 
武蔵「人生は夢芝居さ
 
ひろ子「ちょっと何言ってるかわかんない」
 
ひろ子はテーブルの上から「世に万葉の花が咲くなり」のCDを手に取った。
 
 
ひろ子「たまには真面目に語りましょうよ。このアルバムはどう?」
 
武蔵「ジャパニーズロックはこうやれ!という自信みなぎる作品だよね。和柄のジャケットで、万葉集と自作を呼び、平成の詩人を自称し、日本代表として中国に遠征もした。日本のロック、ポップス史上、サザンが最高のバンドだっていう桑田さんの自負が感じられるね」
 
ひろ子「サザンのアルバムにしてはイメージがはっきりし過ぎてるかなって思うんだけど。相変わらず多様な音楽の詰め合わせだけど、黒の歌詞カードとか怪文書みたいなタイトルの切り貼りが、当時の暗い世相を彷彿とさせるというか」

 

武蔵「そうだよね。本当はいつも通りの楽しいサザンのアルバムなのにね。パッケージを変えたらもっと違った印象になったよね」
 
ひろ子「バンドとしてのサザンはあまり感じないわね」
 
武蔵「この頃の桑田さんは芸術至上主義だよね。自己の音楽的エゴを満たすためなら手段を選ばなかった。サザン名義のアルバムなのにサザンを使わず、小林武史とテクノロジーに重きを置いた。サザンのメンバーは桑田のソロアルバムに参加したゲストぐらいの貢献度じゃないかな」 
 
ひろ子「もうサザンはやりたくなかったのね」
 
武蔵「このアルバムのリリースが1992年、次の『Young Love』が1996年だからね。もちろん途中シングルとかベストとかあったけどオリジナルアルバムのリリースに四年もブランクがあいたわけだ。サザンの復活なんてしたくなかってのが本音だろうし、ほとほとウンザリだった思いの現れじゃない?」
 
ひろ子「国民はサザンを望んでいるのにね」
 
武蔵「でも桑田さんはその辺のマスの心情はちゃんと組み取ってるよ。このアルバムはバンドサウンドじゃないけど音楽的には桑田のひとりサザンになってるもの。この次のソロはディランというはっきりしたコセプトがあるからまだサザンとソロの線引きはされてたんだ。ちなみに、それがなくなるのはミュージックマン。あれはもはやソロという名のサザンだった」
 
ひろ子「私はサザンのバンドサウンドが聴きたいな」
 
武蔵「先日、ラジオで桑田さんが『C調言葉に御用心』をかけてこんな音はもう出せないみたいなこと言ってたけど、ああいうシンプルなサザンサウンドまた聴きたいよね。だから俺、作り込んだ『世に万葉』ていまいち好きになれないんだよね」

ひろ子「まじめに話したらお腹空いちゃった。ラーメン食べにいきましょラーメン
 
武蔵「このクソ暑いのにラーメンかよ。サンドイッチ食べたばかりだろ」
 
ひろ子「足りないわよ。わたしをラーメンに連れてって」
 
武蔵「店主がサザンファンのラーメン屋あるよ。その名も『いとしのフィート』」
 
ひろ子「『いとしのエリー』じゃなくて?」
 
武蔵「『いとしのフィート』で食えなかったラーメンを提供するお店なんだ」
 
ひろ子「何それ?」
 
武蔵「あの曲って『ラーメン ラーメン 昨日はラーメンも食えないで』って始まるでしょ? その昨日食えなかったラーメンが食えるわけ」
 
ひろ子「そのラーメン食べたことあるの?」
 
武蔵「あるよ」
 
ひろ子「おいしいの?」
 
武蔵「ひろ子はどう思う? 昨日食えなかったラーメンはおいしいラーメンだったと思う?」
 
ひろ子「そうねえ。たいしたことなさそうね」
 
武蔵「そういうこと。」
 
ひろ子「え、じゃあマズイの?」
 
武蔵「味は問題じゃないんだ。問題はそのラーメンを食べて『いとしのフィート』の世界観を共有できるかなんだ」
 
ひろ子「わたしおいしいラーメンが食べたいな」
 
武蔵「いや、『いとしのフィート』に行こう」

(つづく)