舘ひろしさんのおじいさん舘喜八郎さんは愛知県庁の職員だったそうです。土木部。
橋の設計をされていたりしたそうです。今は残ってないというはずが、一つ残っていました。
黄柳橋(つげばし)土木遺産の研究をしている馬場教授が同行してくれます。
下から見上げる形になりますね。下がアーチ形になってる。珍しい橋ですね。名古屋工業高校を卒業した喜八郎さんが高校を卒業して1年半で設計した橋だそうです。他の2人の設計者もいる。
道路事業にもかかわっておられたそうです。昭和16年で46歳か。喜八郎さん。
喜八郎の息子、舘ひろしさんのお父さんが栄一郎さん。臨時医学専門部に入ったそうです。
軍医の養成のために臨時で作られた部門だそうです。
中学校卒業して専門部に入って、4年で医者になれると。大学に入るよりも3年早く医者になれる。
栄一郎さんは海軍に入隊して軍医として戦地に行きます。佐世保の海兵隊に行っている。
昭和20年8月15日終戦。
栄一郎さんは療養所の医者となります。結核専門の療養所だったそうです。
栄一郎さん、舘ひろしさんに似てるなぁ。
栄一郎さんは大変女性にもてたらしい。でも、栄一郎さんは仕事一筋で女性には興味無かったらしい。
でも、女性の患者にもてて大変だったらしい。
栄一郎さんは鈴木初子さんとお見合いで結婚します。
次は母方の鈴木家のお話。萬古焼きの工房だったそうです。
おじいさんの鈴木末吉さんが家業を広げました。たくさん工場あったんだ。
急須の大きなメーカーだったそうです。
親戚の方はまだ萬古焼きの職人をされているようですね。伊藤さん無形文化財にしていされている。
昭和2年に初子さんが生まれます。
勉強ができて、字がうまかったらしい。才女だったとか。
四日市高等女学校に入ります。昔は通知表に成績の順番が書かれていたそうですがそこにずっと1番って書かれていたそうです。
四日市高等女学校は今は四日市高校だそうです。昭和20年い卒業されたそうです。が、20年の記録は学校に残ってませんでした。
終戦の年ですからねぇ。
初子は勤労奉仕で女学校5年の1年間は勉強しなくて、ミシンでずっと縫製していたそうです。
昭和44年に初子さんが寄稿した文章があるそうです。戦禍にまみれてという文章を寄せておいでですな。舘初子って書かれている。
卒業式の日1日だけ外出を許されて、学校に行って、答辞も送辞もなく、卒業写真も無い。女学校の記念になるものは無かったそうです。
四日市は空襲で焼け野原になったのか。
舘ひろしさんはこの文章について知らなかったそうです。女学校時代成績が2番に1回だけなったそうで、随分泣いたそうです。
昭和19年~20年、名古屋も空襲を受けます。舘家は四日市市に疎開します。
平野家の離れに暮らします。その平野家に和裁を習いに来ていたのが初子。
そこで見合いを薦められて、栄一郎と初子が見合いをすることに。
阿倉川駅に初子はこっそりと見合い相手の栄一郎を見に行きます。
背が高い人だったそうです。
栄一郎26歳、初子22歳の時に結婚。
25年3月に長男、廣が誕生。
栄一郎は宮田の診療所に働くことになります。
その時、診療所に勤めていた石黒ひろ子さんの家を訪ねます。受付をされていたそうです。
宮田町は人口6000人なのに医者は二人。そのうちの一人が栄一郎さん。
診療所にはバイクも車も無いので、自転車で患者のところに往診したのだとか。
その後、四日市から名古屋に戻ります。
昭和27年、栄一郎の弟、荘平が結核で倒れます。お爺さんの喜八郎さんは高い薬を手に入れたそうです。
名古屋の土地を売って薬を手に入れたそうですが、荘平は亡くなります。
みんなショックでご飯が喉に通らなくて、ご飯が残ったそうです。
栄一郎は名古屋の実家に戻ります。
名古屋の総合病院に勤めます。仕事が終わって、家に帰ると医学博士になるための勉強をしたそうです。
その後、医学博士になられます。
昭和37年に舘医院を作ります。開業医になるんですね。
夜中の往診とか起こされた話を初子さんはされてます。酷い時は1日3回も起こされたそうです。
看護婦がいなかったから、初子さんと2人3脚でやったそうです。
廣さんが中学生の時に診療所を建てたそうです。
昭和31年に廣は小学校に入ります。廣は長男として期待されたそうです。
平野さんの長男、勝介さんが当時の廣を覚えてます。平野さんも医者なんだ。
初子さんは廣に医者になって欲しいと期待したそうです。
廣は千種高校に進学。ラグビー部に入ったそうです。
文川さんが誘ったそうです。体格がいいから。廣さんの周りはいつも賑やかだったのだだとか。
舘さんは2代目のキャプテンになります。
高校の時、既に今の顔ですな。ラグビーに必死で勉強に手が回らなかったそうです。
練習が終わって家に帰って勉強机に向かったら家で居眠りしていたそうです。
365日、初子さんは勉強しなさいと言わなかった日は無かったそうです。
廣は2年連続で医大の受験に失敗します。悪い仲間ができて、浪人時代はずっと遊んでいたそうです。
予備校の授業を受けたことも無いと。
浪人するなら東京に行こうとか行ったらしいです。
舘さんは許してもらえなかったのですが、2浪の時に東京に出たそうです。
千葉工業大学に廣が入学します。
建築の勉強をすることになります。が、廣は大学在学中にクールスを結成。オートバイのグループだったそうです。
歌手だと思っていたが。
オールブラックスみたいに黒い集団にしたかったと言われてます。
チームごと暴力教室という映画に出たと。ここで大学に行かなくなったそうです。
お父さんは何も言わなかったのだとか。
初子さんは舘さんがいつでも大学に戻れるようにとこっそり学費は払い続けていたそうです。
芸能人は不安定でずっと収入も無いだろうけど、建築の資格を取ればやっていけるからと思われていたそうです。
毎年、お母さんは千葉工業大学に行って、ういろうと持って、息子をよろしくお願いしますとご挨拶にこられていたそうです。
舘さんは石原プロに入ります。渡哲也さんに会って初めて、「ひろしお前には華がある」と言われたそうです。
渡さんに会ったことで、人生が変わったと。
昭和59年に発売した「泣かないで」が大ヒット。
俳優としてかつやっくされていきます。信長役やっていたんだ。
実は舘さん、西部警察の最後の方まで千葉工業大学に在籍していたそうで、西部警察の撮影で名古屋に行った時、撮影を見に来ていたご両親に石原プロの小林専務が、舘さんは俳優としてこれからもやっていけるから、大学はもう止めにしましょうと言われたので、お母さんも諦めたそうです。
初子さんは舘さんが出ているドラマはずっと見ていたそうです。71歳か。舘さん。
舘プロを立ち上げた舘さん。
舘ハートクリニック?
舘さんの弟さん啓二さんがやっておられます。舘さんが芸能人になったので、啓二さんが実家を継いで医者になったんだ。
舘さん千葉工業大学から卒業証書もらったんだ。その話をすると初子さんうれしそう。
卒業式の様子を収めたDVDを初子さんに見てもらいます。ああ、啓二さんも一緒に見てます。
1人だけなんだ。卒業生。
お母さん映像見ながら泣いてらっしゃる。
令和3年3月22日。お母さん、卒業式に行けなかったけど、様子が見られて喜んでおられます。
舘さんもその様子を見て嬉しそう。