久々の活動、生けた直後は今回もイマイチって感じだった。
けど、写真で観ると、まあ、いいんじゃないっと自画自賛。


写真で観るとなぜいいんだろう。
一応、この角度から見たほうがいいんじゃないかと思って撮っている。

そう考えると、生け花は絵画?
いや、立体なので彫刻?
やっぱり、生け花を始めた頃から思っている舞台演劇?

彫刻と考えた時、全ての彫刻もそうではないかもしれないが、
生け花(私の作品に限ってか?)360度から鑑賞するのには耐えられない。
やっぱり、この方向から見たほうがいいというのはある。

絵画との決定的な違いは長い時間もたない。
一応、生きている花を使っている。
鑑賞に耐えられるのは長くて一週間だろうか。
では造花だと絵画に近いか?といえば、そうでもない。

では舞台演劇はどうか?
鑑賞するのにその時だけのものという点は近い。
360度から鑑賞する舞台演劇もあるかもしれないが、ある一定方向から鑑賞するのが一般的だろう。
 

その点、いくつもの視点からカットを編集できる映画は生け花より、より遠いものになるのかもしれない。
花材をどう活用するかは俳優にどう演技させるかというところで近いかもしれない。

では、絵画、彫刻、舞台演劇、映画と生け花の似ているところは?

それを考えるに生け花側からの切り口、アプローチとしてあげたいのが、
1.人に見せるためか
2.自分のためか
がある。

2.の自分のためかをもっと踏み込んで言うと、自分との対話のためかだ。
自分との対話の過程でなされる生け花もある。

私がこの華道部活動でやっている生け花は花材も地味で数も少ない。
人に見せるためという目的ではなさそう。
といって、自分との対話というには、これも周りはおしゃべりで必ずしもそうでもない。

けれど、周りはおしゃべりで騒がしくても、自分との対話が全くできないわけではない。

今回、私はどうだったかというと「自分との対話」には意識はいかなかったが、目の前の花材、手にした花材をどう生けるか、どすれば、よりましな形で生けられるかを考えながらやっていた。

そして、出来上がったものを見て「イマイチ」と思った次第だ。
そこでこう思う。
生け花って自分にとって何?

人に見せるためを目的にしたものなら、自分よりもっと上手にできる人にやってもらえばよいではないか。

華道部活動を始める前、部員たちの作品を見て私は「人に見せるためを目的にしたもの」ではないことを感じ取っていた。
だからこそ活動に入れてもらうことにしたのだ。

「生け花って自分にとって何?」は「自分は何?」と考えることと同じだ。


作品を観て、あるいは作品を作ってみて「自分は何?」と考えることは絵画、彫刻、舞台演劇、映画を鑑賞することにもあるかもしれない。

いや、なぜ絵画、彫刻、舞台演劇、映画を鑑賞するのか?生け花をするのか?
自分を知りたいからだ。

今回の花材はローゼル、ケイトウ、フジバカマ
画像はコントラスト調整あり