映画「人間失格」(2010年、荒戸源次郎監督、生田斗真主演)を観た。
ラスト10分くらいの葉蔵とテツが出会ってからのシーンに、いいね!と思った。

私は観終わってすぐさま原作の小説文庫本を本棚から引っ張り出した。
探したのは、やはり小説の終わりにあるだろうテツと出会ってからのところだ。
映画では超大事なシーンだと思ったが、小説ではなんと最後の1ページあまりだ。

テツと出会ってから最後まではすぐ読める。
最後まで読んで、なるほど!と腑に落ちた。
ちなみに小説「人間失格」は大学生の時に買った?のだろう。

35年間読んでなかった。

そこを読んで大事だと思った一文を文庫本から書き出す。
(講談社文庫P.125より、奥付はS58年、定価180円安っ!)

”自分がいままで阿鼻叫喚で生きてきた所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。”

ここで、”それだけでした”の”それ”は何を指すのか?
何が阿鼻叫喚の世界で真理らしく思えたのか?

ともかく、阿鼻叫喚の世界で生きてきて真理らしく思えたことがあったわけだ。
ここまで読んできた読者は「よかったじゃない!」と喜ぶべきところではないか。

で、国語のテストじゃないけれど”それ”は何を指すのか?

私はこう考える。

その”自分がいままで・・・”の一つ前の文、

”ただ、一さいは過ぎて行きます。”

そう、阿鼻叫喚の世界で真理らしく思えたのは、一切がただ過ぎて行くことなのだ。

少し加えると、その前の文、

”いまは自分には、幸福も不幸もありません。”

そう、幸福と不幸を越えたところに、一切がただ過ぎて行く、があるのだ。
それは、幸福というテーゼと不幸というアンチテーゼをアウフヘーベンした結果だ。
一切がただ過ぎて行くことが、どれほどよいことか。

葉蔵はそれまで、幸福も不幸も越えることができなかった。
逆に言うと、一切がただ過ぎて行かない状態とは何か?

それは酒や薬に逃げ込んでは死のうとする状態だった。

それがテツと出会ってからは、酒や薬に逃げ込んで死のうとはしなくなった。
映画の中でテツの横で葉蔵が裸で背を丸め胎児のような姿のカットがあった。
あれは葉蔵が生まれ変わったことを表しているのではないか。

裸で背を丸めた葉蔵は胎児のようであり、ヨシ子が煮ていたそら豆のようでもある。
原作にはそんな描写はないけれど。
ともかく「生まれて、すみません」が「生まれ変わってよかったね」になったのだ。

そして、生まれ変わってよかったと思えるところはさらにその前の文

(講談社文庫P.124より)
そこは、この小説「人間失格」でよく話題にされるところだ。引用しよう。

”「これは、お前、カルモチンじゃない。ヘノモチン、という、」
 と言いかけて、うふふふと笑ってしまいました。「廃人」は、どうやらこれは、喜劇名詞のようです。眠ろうとして下剤を飲み、しかも、その下剤の名前は、ヘノモチン。”

葉蔵は笑っているのだ。
テツがカルモチンでなくヘノモチンを買ってきたボケに

「これは、お前・・・」と葉蔵がツッコミを入れようとしている。

まさに喜劇だ。

そして、ここを読んで私が想起したのは、正岡子規の辞世の句と言われる句だ。

「糸瓜(へちま)咲いて痰のつまりし仏かな」

子規の句を私はこう解釈している。

へちま水が病気に効くと、妹がへちまを植え、ようやく花も咲いた。
しかし、もう死にゆく私には間に合わない。
あの世でも私は、さぞかし痰のつまった仏であろうよ。

と、うふふふと笑っているのである。
死にゆく悲劇の中に子規は喜劇を見出している。

これを詠んだ時の正岡子規の境地と「これは、お前、カルモチンじゃない。ヘノモチン、という、」と言いかけて、うふふふと笑ってしまう葉蔵の境地は同じだと思う。

「仏」はさながら喜劇名詞だろう。

私は、太宰治と正岡子規の関係を調べた。
直接の親交はないだろうが、ネットにこんな記事があった。

日本の文豪の相関図

それによれば、太宰治→芥川龍之介→夏目漱石→正岡子規とつながる。

太宰治は正岡子規のこの句を知っていたかもしれない。

ここで、ヘノモチンの謎だ。
ヘノモチンという薬はネットで調べたが出てこない。
そんなものはなく、太宰が作ったものかもしれない。

カルモチンと対比されるので、〇〇モチンと名付けたいところだ。
ネットには「屁のも珍」説もある。下剤なだけに屁もいい。

だが私はヘチマから採ったと思っている。
「ヘ」も「チ」も入っているし「マ」と「モ」は同じマ行だ。
「廃人」は俳人正岡子規にもつながるし。

ということで、この小説はハッピーエンドと解釈できる。

映画のほうは単純にそうは思えないかもしれないが、
”ただ、一さいは過ぎて行きます。”
は映像でも表現されている。

ラストの汽車の客席シーンだ。

これまでの登場人物が客席で、それぞれのセリフを再現している。
それは葉蔵に起こったことが、ただ過ぎて行くことを表している。

ただ起こったことが過ぎて行くけれど、そのシーンで葉蔵が酒や薬に逃げ込み死のうとはしない。
そこに居るのは「生まれて、すみません」から「生まれ変わってよかったね」の葉蔵なのだ。

そう解釈すると、この映画もハッピーエンドと言えるかもしれない。