10.ラストのラストでラブシーンはないけれど(宿題5)


 (黄)はそれぞれ恋に破れた欽也と朱美が旅先で出会うところからストーリーが始まります。ストーリーが進むうちに二人は理解を深め互いに成長し、ラストのラストでラブシーンがあり二人は真の恋人になったという、観客にはわかりやすいメッセージがあります。

 (レ)ではチャーリーとスザンナはストーリーの最初から恋人同士ですが、うまくいっていません。ですが、(黄)と同じようにレイモンドと旅を続けるうちにチャーリーは成長をとげ、スザンナともうまくいくというメッセージが隠されています。

 その隠されたメッセージとは?そもそもこのストーリーはチャーリーの父親がなくなり、財産相続のアンバランス、すなわち兄レイモンドには300万ドルという莫大なお金、弟チャーリーには49年型ビューイック・ロードマスターという父親の古い愛車とバラの木だけだったことから引き起こされます。

 それにしても、バラの木とは何なのでしょう。チャーリーは父親の葬儀のあった夜、弁護士から父親の遺言を聞きます。映画(DVD)の字幕では「・・・お前の幸運を祈る・・・賞に輝く自慢のバラの木をおくる。丹精と完成の美を息子に示すだろう」。

 

 こんな遺言があったのですが、ストーリーのなかでバラの木については、チャーリーとスザンナが父親の住んでいた屋敷へ寄ったとき(弁護士から遺言を聞くのはその夜)に、庭でスザンナが「バラの木が枯れているわ」とチャーリーに言うだけです(これも字幕)。

 これだけではバラの木に何の意味があるのかわかりません。父親の遺言もストーリーには意味がないのか。先のスザンナの「バラの木が枯れているわ」のところを映画から起こした脚本(『レインマン』フォーインクリエイティブプロダクツ、英語を学ぶため映画の脚本であり英語の台詞と日本語の対訳が載っている)を見みると、その台詞は“Somebody should be watering those roses.They’re all dying.”となっています。

 ここの訳は“バラにお水をあげなくちゃ、全部枯れてるわ”。なるほど、バラは枯れかかっていて、誰かが水をあげないといけない状態らしいですね。これはどういうことか。

 私はこの状態こそ、うまくいっていないチャーリーとスザンナの関係であると考えます。二人の関係は枯れかかっていて今、水が必要なのです。それをスザンナが「バラの木が枯れているわ」と訴えているのです。そこで、チャーリーはレイモンドと出会って旅を続け、レイモンドとは一緒に暮すことにはならないけれど兄弟の関係を築くことができました。そして、そのことはスザンナともいい関係を取り戻すことも予感させます。

 ここに父親の遺言どおり、幸運と丹精と完成の美を見ることができたというメッセージを読み取ることができます。遺言やバラの木には意味があり、(黄)のようにラストで二人のラブシーンを観客に見せて完成を表現する必要はないと考えます。

11.歓喜に満ちたシーンはないけれど(宿題6)


 (黄)ではラストに観客が期待している黄色いハンカチがこれでもかと言わんばかりに旗ざおに結び付けられているシーンを見せます。歓喜の涙で顔をくしゃくしゃにしている欽也と朱美、喜びと感謝で何も言えない勇作。

 

 観客も旗ざおに連なる黄色いハンカチを目にし心のなかで「やったー」と叫び、涙するでしょう。そうなるとわかっているんだけれども、そのものを見せて感動させる。これぞ日本人好みのウケる映画のラストシーン。

 (レ)はずいぶん違います。ラストはチャーリーがレイモンドと彼を迎えにきた自閉症者施設のブルナー医師を駅で見送るシーン。なぜ列車か?飛行機や高速道路ではレイモンドがパニックを起こすことは既にわかっているので必然的にそうなるのですが演出上も重要です。

 レイモンドは列車の外で見送るチャーリーに横顔が見えるように、窓際に列車の進行方向が背になるように座ります。そして相変わらずポータブルテレビに見入っている。いよいよ発車の時がきてゆっくり列車は動き出す。レイモンドの顔をじっと見るチャーリー。それでもポータブルテレビに見入っているレイモンド。

 

 この時、観客もレイモンドの顔に釘付けになります。最後に顔を上げてくれるのではと期待して(*1)。けれども、それはなく、だらだらと列車は流れていく。


 このとき観客はチャーリーの気持ちになりきってというより、もうレイモンドを見送る人そのものになっていることでしょう。ああ、顔を上げてくれなかったのか。ただ目の前を列車が過ぎていくばかり。。。と悔しいような、それでいてレイモンドには温かな気持ちを持とうというような、なんとも言えない感動を観客に残すのです。

12.自閉症という切り口で


 この感動に観客を導くためにいくつかの演出上の仕掛けもあるのですが、もうそれを書くスペースがありません。そろそろまとめを。

 

 そもそもこのエッセイでこの映画を採り上げたのは、自閉症に関して何が見えてくるか、自閉症者や彼の周囲が立ちすくんでしまう現状から立ち直るヒントはないかを考えることでした。

 この映画では、それまで兄の存在を知らされてなかった弟チャーリーの前に突然自閉症の兄が現れます。これは家族の一人が突然、自閉症と診断されるのに該当します(*1)。

 

 そこで弟はどんな行動をとるか。二人の間でどんなことが起こり、弟の気持ちや行動はどんなふうに変化していくか。それは周囲の者がどうすべきか考えることに該当します。

 1988年にアメリカで作られたこの映画は、弟は自閉症の兄とは一緒には暮らせないことを悟り、見送っているのに顔を上げて応えてくれない兄を温かく許すというひとつのモデルを示したのにすぎません。

 今、この時代、あなたは、もしこの映画のラストシーンを、いや映画全体を作り直すとしたら、どこをどう直しますか? そう、それは自分にぴったりとくる物語とするために。(終わり)

(*1)この視点は『自閉症の謎こころの謎 認知心理学からみたレインマンの世界』(熊谷高幸著、ミネルヴァ書房)にも見られる。

【これは私(竹藪みかん)が2014年2月ごろに書いたものです。】