5.『レインマン』と『幸福の黄色いハンカチ』を繋ぐもの
では『レインマン』(前回と同じように以下(レ))と『幸福の黄色いハンカチ』(以下(黄))の似ている点3つの宿題から考えたいと思います。
 
 宿題1はレイモンドや勇作のよそ者と若い恋人たち、すなわちチャーリーとスザンナ、欽也と朱美たちが出会う意味。宿題2はよそ者が恋人達のラブシーンの邪魔をする意味。宿題3は旅の途中で子どものいる農家に立ち寄る意味はそれぞれ何か?でした。

 これらの意味を考えるにあたって、(レ)と(黄)を繋ぐ第3の映画を紹介します。それが『シェーン』(原題「Shane」、1953年作製のアメリカ映画)です。そうです。ラストで少年が「シェーン、カンバーック」と叫ぶ西部劇です。

 何でまたこれがというと、ウィキペディアで(黄)を調べると、山田監督は『シェーン』からこの映画の着想を得た(ページ最後の◆おまけコラムを参照)とあるのと、(レ)のレーザーディスクの解説(文:小藤田千栄子)に“アメリカ映画は、旅に出るとがぜん輝くのは西部劇以来の伝統でもある。”という記述があるのです。

 アメリカのロードムービーの源流は西部劇にあるのでしょうか。私は『シェーン』(以下(シ))も観てみることにしました。その結果、確かにこれらの3つは繋がっていると思いました。

6.『シェーン』という映画とは?
 どんなストーリーか簡単に言うと、流れ者の(シ)が開拓農民の一家に立ち寄ったが、そこでは悪者たちが「この土地はもともと我々のものだ。出て行け」と開拓農民らに嫌がらせをしており、その悪者退治に(シ)が手をかすというものです。

 これで宿題の1と3は繋がっているのが大体わかります。流れ者すなわちよそ者の(シ)が開拓農民のスターレット家、主人のジョー、妻のマリアン、子どものジョーイ少年と出会います。


 では宿題2のように、(シ)はジョー、マリアン夫妻のラブシーンの邪魔をするのかというと、直接そのようなシーンはありません。ここで、ラブシーンの邪魔をするという意味を考えます。

 恋人や夫婦にとってラブシーンの邪魔をされるということは、非常にプライベートなところに割り込まれることです。それがなされると両者には深い対立が生じます。

 

 ですが、ストーリーのなかで、この対立は解消され、むしろ両者の絆はゆるぎないものへなっていきます。

 (レ)や(黄)ではストーリーの始めでこのシーンがあり、後に両者は友情や理解を深めるという伏線になっています。(シ)では逆に(シ)とスターレット家が徐々に理解、友情を深め、ストーリーの終わりでそれがゆるぎないものになったことが表現されます。

 (シ)のストーリーをもう少し言うと、開拓農民たちへの嫌がらせがエスカレートし、農民の一人が悪者に雇われた早撃ちの殺し屋に殺されてしまいます。農民たちはもうそれに耐えられず、出て行くという者と残って闘うという者に分かれます。

 それらの葛藤の末、農民たちは一致団結、残ることになります。そこでジョーが悪者たちと話をつけるために単身でかけようとします。殺されるかもしれないからやめてと妻マリアンは止めますがジョーは聞きません。

 早撃ちの達人である(シ)は「お前には無理だ。俺にまかせろ」と止めますが、やはりジョーは振り切って行こうとします。そこで(シ)はジョーを止めるために殴り合いまでします。理解や友情がゆるぎないものになったからこその殴り合い、対立です。

 結局、(シ)が悪者退治にでかけ勝利を治めますが、スターレット家から去って行くという結末になります。

7.よそ者がやってきて理解や友情を深める。この意味は?
 よそ者がよそからこちら側にやってきて、また去って行く。これが(レ)にも(黄)にも(シ)にも見られる物語のパターンです。

 

 よそ者はこちら側の者に何をもたらすのか。それはやはり成長ではないでしょうか。他者(よそ者)と交流を深めることにより自分は成長するという意味があると私は考えます。

 なぜ農家なのか、それは時代や物語が展開される場所などの制約からでしょうか。でも(レ)や(黄)では農家でそこに小さな子どももいたりして、なんかホッとさせるものは感じます。

 (シ)が作製された頃、日本では黒澤明監督の映画『七人の侍』が公開(54年)されました。これも七人の侍が農民を助けるというよく似た状況やストーリーです。これと比べても何かヒントが得られるかもしれません。

 成長に話を戻すと、(黄)では欽也と朱美が本当の恋人になっていくということが成長にあたりますが、(レ)ではどうなのか。これは宿題5のそれぞれの恋人達に、それらのストーリーは何をもたらしたのかと重なってきますので次回、じっくり考えることにします。(つづく)

◆おまけコラム 「シェーン、カンバーック」と「おかえり」
(黄)の勇作の回想シーン(何度もある)で必ず妻光枝が「おかえり」といいます。言うまでもなくこの言葉は勇作が戻ったら光枝にかけてもらいたい言葉です。
 さて(シ)が悪者を退治して、つまり殺人者となり去って行く。そのときが「カンバーック」。一方、殺人者となった勇作が刑務所から出所し光枝の所に帰ってきて「おかえり」。それぞれが呼応したものになっているのです。

【これは私(竹藪みかん)が2014年1月ごろに書いたものです。】